「平和ボケ」に対する懺悔

 高校生の頃に行なった自分の発言について,軽率であり,共感性や想像力が欠けていたことを,ここで懺悔したいと思います。
 その発言は,東京の高層ビルや住宅等の建築物が密集した状況を見て,

「大地震が起きたら面白いだろう」

と述べたことです。

 今思えば,未熟というよりも,具体的な想像力に欠けていたのだろうと思います。
 また,違う言葉で言えば「平和ボケ」していたのだとも言えるかもしれません。

 ところで,ここで申し上げたいのは,この「平和ボケ」という言葉は,高校生の頃の私のように,共感性や想像力が欠け,ウクライナやガザ地区その他国際紛争が生じている地域の惨状を目の当たりにしながら,何も感じないことに対して使うべきだということです.
 連日のようにガレキや焼け跡が広がった惨状が映像で流れてくる中で,テレビやネットの向こう側で起こっている現実を他人事のように感じ,無関心となっている国民や政治家に対して使うべきです.
 今まさに,この国全体が平和ボケしているということを認識し,世界で起こっていることに対して,何ができるのか,真剣に考えるべきではないでしょうか.

 他方,反対に,国家安全保障における軍拡を議論する際に,この言葉を用いることには注意すべきと考えます.
 その理由は,ここでの「平和ボケ」は,軍拡を反対する考えに対し,反論をさせずに,これを認めさせるのためのマジックワードであり,これを前提にした場合,具体的な議論が成り立たないからです.

 もともと,「平和ボケ」とは,平和に慣れすぎて現実を見失う状態を指す言葉で,戦争や安全保障に関する自国を取り巻く現状や世界情勢を正確に把握しようとせず,争いごとなく平和な日常が続くという幻想を抱くことを指すものと理解されています.
 そのため,戦争に対する備えとしてどの程度のものが必要かという議論する際,自衛隊の装備等の拡大を支持する政治家が,防衛の重要性に考えが及ばないことを指して「平和ボケ」と用いる場合があります.

 しかし,ここでの「平和ボケ」は,国家安全保障に対して,どれほどの現状認識や危機感を有していたとしても,その装備を増強する方向に賛同しない限りは,常に「平和ボケ」とみなされることが前提となっています.どのような認識を有していれば「平和ボケ」ではないのかは明らかではありません.具体的な基準のようなものが存在して用いられているものではありません.

 そのため,この文脈における「平和ボケ」から抜け出すということは,軍拡を際限なく許容することを意味し,この言葉は,軍拡を進めるための,反論を許さないためのマジックワードとして用いられ,建設的な議論をさせないためにあえて使われていると言っても言い過ぎでないと思います.そして,その場合の軍拡も,これと比例してどこまで行っても十分なものと判断されることがなくなるはずです.

 ですから,国家安全保障を語る上で,この「平和ボケ」という言葉は用いるべきではないというのが私の意見です.

 そして,冒頭で述べましたように,崩壊した建物やそれらのガレキが一面に広がる映像からは,電気・水道・ガスというライフラインが断絶し,雨風を凌ぐ屋根や壁がなく,公衆衛生すら確保されないということが想像されます.
 このような,平和が損なわれた場面を目の当たりにしながら,そのことの意味に考えが及ばないことを指して,「平和ボケ」という言葉を用いることにより,その想像力の欠如や無関心が戒められるべきではないかと思います.
 「平和ボケ」であることの基準として,普通の生活が失われた状態を認識しながらそのことに関心を払わない状態を用いることは,その基準として相当と思われます.

 高校生の頃に,冒頭のような発言に及んだ私でも,年齢を重ねたことで,昨今のウクライナやガザの状況が具合的な映像で流れてくる中で,その悲惨さをある程度の具体性を持って認識することができるようになるに至っています.
 特に,近年の震災で避難生活を送らなければならない方々の存在を間近に感じることができる我が国であれば,尚更,そのような想像力は働きやすいのではないでしょうか.

 自分の置かれた平和な環境(水道・ガス・電気があり,雨風を凌ぐ屋根も壁もあることが普通であること)に慣れ,そうでない状況に置かれることがいかに過酷なものであるのかについて,想像力に欠ける,このような状態をさして,まさに「平和ボケ」というべきです.

 そして,その映像の向こうにある現実の世界について無関心となることなく,仮にそのようなことがあれば,これを戒める意味で「平和ボケ」という言葉が使われるべきであるように思います.
 今まさに,「平和ボケ」という言葉により,改めて平和の意味を考えるべき,そんな時代ではないでしょうか.