5年ぶりに献血に行きました。
献血に限らず,注射や点滴をするときは,必ず,その刺すところを見ていないと気が済まないという性分ですが,決して,針を刺すことが好きなんわけではありません.そのため,目の前で,他人の腕に針が刺さるところからは,そのことに耐えきれず,必ず目を背けてしまいます.
初めて献血をしたのが22歳(大学生)の頃で,献血のバスを見かけてフラッと入ったのが最初です.
その当時,当たり前といえばそうですが,献血をしたことで「血液は人工で作り出せない」ということをはっきりと認識するに至りました.
それ以降,献血をすると,血液の検査結果を教えてもらえることもあり,機会があれば献血を行うようになり,気が付けば,その日で41回目ということでした.
ところで,医療現場における輸血と献血との関係は,日赤の存在は当然ですが,特定の誰かの好意(行為)によって成り立つというのではなく,不特定の少しずつの多数の好意により成り立つ関係にあるものとイメージしています.
決して,国民の誰もが献血を義務付けられてこれを強いられているというわけではなく,また,特定の誰かが犠牲になっている(血液を搾取されるために生かされている)というものでもありません.
そのような関係性が,私にとっては,なんとなく心地よく感じられることもあり,自然と献血を続けてきたのだと思います.
その反対に,特定の個人の犠牲により,特定の組織や団体の存在が成り立ち,あるいは利益となるという関係性については,とても嫌悪感を感じてしまいます.
そのため,最近のメディアで取り上げられ問題となっている,とあるテレビ局における女性社員による接待への同席と被害(搾取)についての報道に接すると,不快感を超えて,怒りを感じることさえ禁じ得ません.
この件は,多数の好意による献血により,失われたかもしれないどこかの誰かの命が助かるというのではなく,被害者が犠牲を強いられたことにより,組織の中で,誰かが得をして,誰かの評価が上がったという関係性があるのだろうと思います.被害者の存在がとても痛ましく感じられてなりません.
事態の解明と,関係者の処分,それに伴い,被害を受けた方の心身及び名誉の回復がなされることを切に祈念いたします.