公務員の頃のこと

⚫︎ 福井労働局

 2001年4月,福井労働局福井労働基準監督署の第1方面に配属されました.この日から,約7年間(福井労働局:3年間,厚生労働省:3年11か月)に及ぶ公務員生活がスタートしました.

 労働基準監督官は,当時,採用されたのち,全国にある労働局に配属され,その局内の労働基準監督署に勤務します.
 内定後,一応,配属先を希望することができるのですが(確か,当時は第1から第3まで),私の場合,第1希望に「全国」とだけ記載したところ福井局となってしまいました.
 なお,後々,人事の話を聞くと,大阪で試験を受けて採用された場合は東京に,東京で試験を受けて採用された場合は大阪にという以外は適当で,「福井さん」という方が福井局に配属されたりなど,特に考えもなく初任地の人事が行われていると聞いたことがあります.
 そのため,「全国」と記載した私は,おそらく,誰も希望することのない福井局に配属されることになったのだと思います.

⚫︎ 新任監督官研修

 現在はどうか知りませんが,労働基準監督官となったのち,最初の1年6月の間は研修期間という扱いになります.
 配属先でのOJTの他,新任監督官研修というものが,当時の労働大学校(埼玉県朝霞)というところで,2回に分けて合計2月半ほど行われました.そこで,全国の同期と顔を合わせることとなり,そうなると,研修を受けて研鑽するというよりも,交流を深めることが主な活動となっていました.
 そのため,飲み会が多く行われたことは当然として,外部での研修が行われた際は,同期数名と神宮球場に行きヤクルト戦を観戦して傘をさして応援したりしたこともありました.

⚫︎ 大人の社会科見学と「落ちるぞ」という感覚

 労働基準監督官の仕事は,「監督」という事業場に行き,法違反がないかを確認し,違反があれば是正勧告を行うというのがメインとなります.そのほかに,司法処分と呼ばれる司法警察員(要するに事件を捜査する警察)としての活動や,未払賃金立替払の処理などがあります.
 刑事,検察官,国税専門官については,各テレビ局で多数のドラマが作成されているように,非常に派手なイメージがありますが,それと比べれば,労働基準監督官の仕事というか存在は地味なイメージがとても強いです.私の記憶では,ドラマ化されたことはこれまでに2回ぐらいしかなく,世間における認知度もその程度なんだと思います.

 もっとも,労働基準監督官は,労働Gメンと呼ばれ,国税専門官(マルサ)と比較されることが多いですが,正直,国税専門官では,なかなかできない経験をすることができる興味深い仕事ではありました.どういうことかというと,国税専門官は,事務所に立ち入り,税金に関する調査を行うことはあってもその,会社・事業場がどのような業務を行なっているかまではノータッチとうことです(酒造については別かもしれません.作り方により税率が異なるためです.).
 これに対して,労働基準監督官は,労働時間や賃金の支払状況なども調べますが,安全衛生について,それと同じあるいはそれ以上に監督をする必要があります.
 そのため,製造業であればその製造工程やそこで使われる機械を見せてもらうことがありますし,建設業であれば,完成前の足場が組まれ,多数の職人さんたちが仕事をしている中で,その現場での作業等を見せてもらうこともあります.そのような意味では,国税専門官とはかなり違います.言い方は悪いかもしれませんが,大人の社会科見学という感じです.
 福井県であれば,敦賀にある原発の定期点検中にその中に入ることもありましたし,臨海の工業地帯に行き,製薬会社の工場,繊維工場,そのほかにトンネル工事の現場などにも監督に行かせてもらいました.
 そのようなこともあり,過労死やサービス残業ということが労働基準監督官のメイン業務のように思われるかもしれませんが,当時は,安全衛生が業務の主要な部分を占めていたものでした.
 そのため,今でも,高いところで作業している人がいると
 「ああ,危ないことして.落ちるぞ」
と思うことがよくありますが,労働基準監督官にとって「あるある」の感覚です.

⚫︎ 一人親方と「青空」

 また,私としてありがたかったことは,労働基準監督官は,「一人親方」と呼ばれるように,基本的には単独で事業場に行き,監督を行うことが予定されていたことです.もちろん,数名で監督を実施することや,司法警察員として実況見分や捜索差押を行うこともありましたが,基本は一人です.
 そのため,協調生に欠ける私としては,その辺の仕事の進め方というのは非常にありがたかったです.もちろん,研修中は,上司と共に監督に行き仕事を覚える必要がありますが,幸にして上司にも恵まれたこともあり,それぞれの上司のキャラも異なっていて,なかなか興味深い日々を過ごすことができました.
 なお,一人で事業場に行くと,危険な香りのする場合もありましたが,これについても,幸にして,長時間怒鳴りつけられるようなことがあった程度で,危害を加えられるようなことはありませんでした.
 嫌なことを言われたり怒鳴られたりすることもありましたが,職場に戻れば,気が滅入ってしまうようなことがあっても,諸先輩方も似たような経験が多々あるようで,反対に,そのようなことを笑い話にしてしまえる,そんな職場の雰囲気にも助けられました.

 そのようなわけで,労働基準監督官の仕事は私にとっては楽しいことが多く,特に,庁舎から外に出て活動することが多かったことから,「青空」(天気が良いこと)がとても幸せに感じられる,そんな仕事という印象がとても強く残っています.

⚫︎手持ちのカード

 ただ,楽しいことばかりではなく,労働者との相談対応は,かなりシビアなものがありました(厳密にいうと申告を受けるかどうかという場面のことです.).
 これが嫌な場合,労働基準監督官の仕事はストレスにしかならず,それから逃れるために本省を希望する方もいるぐらいでしたが,私の場合,比較的,このような場面での業務も楽しめた方でした.
 例えていうなら,限られた手持ちのカードを,どのような順番でどのタイミングで伝えるかにより,相手の反応も変わってきますので,自分の説明をいかに納得してもらえるかというパズルを解くような点に面白さを見出していました.弁護士の頭の使い方に近いです.
 そのおかげで,ここである程度の相談対応の仕方を身につけられたことは,弁護士となりいきなり開業した後にも大いに役立ったと思っています.

⚫︎本省異動を希望することの意味

 そのような楽しい現場での仕事も3年でお別れとなり,4年目からは,厚生労働省労働基準局労災補償部補償課通勤災害係として,霞が関に異動となりました.
 別のところでお話ししましたように,進路を選ぶ際,霞が関で何が行われているのかに興味があり,国家1種試験で採用されなかったこともあり,福井に配属された当時から,3年目満了時に予定される異動では,本省を希望する旨を上司等に伝えてありました.その結果の異動です.

 現場(労働局や監督署)サイドの方からすると,本省への異動を希望すると良い顔をする方とそうでない顔をする方に分かれます.
 基本的には,本省勤務の経験がある方については,「頑張ってね」と比較的歓迎してくれるのですが,そうでなく,上から偉そうに負担ばかりを押し付けてくる本省に対するアレルギーを有している人たちからすると,「本省なんか行っても無駄だ」みたいな顔をされてしまうことがありました.
 私の場合は,監督官の仕事にも愛着があり,青空を見て幸せを感じられる現場を離れるのが寂しい気持ちもありましたが,やはり霞が関に行ってみたいという思いがあり,最終的にこの希望を維持したものでした.

⚫︎ 労災補償部補償課

 2004年4月から私の本省での勤務がスタートしました.
 その内容は,大きく分けて前半の2年間が補償課での勤務で,後半2年間が労使関係担当参事官室での勤務に分けられます.以下,最初にお話しするのは,主に補償課にいた時のことです.

⚫︎帰れない理由

 異動前から,霞が関の勤務というのが不夜城と呼ばれるように夜遅くまで,下手をすると日付が変わっても帰れないということが日常茶飯事と聞いていましたが,幸にして,私の配属された部署では毎日のようにそのようなことがあったわけではありませんでした.
 遅くなる理由は,国会からの質問に対応すること(特に,法改正が控える場合は多くなります)と予算編成が主な理由でしたので,それらに関連する部署は下手すると明け方まで残らなければならないこともありました.
 幸い,私の配属された部署では,その時は,そのような関係の業務がなかったため,仕事それ自体が多忙というわけではなかったのですが,一応,国会の対応の関係で待機を指示されれば,定時で退庁できることはほぼありませんでした.
 そして何より,そのように遅くまで残ることが常態化し,上司が帰らないから帰れないという雰囲気だったことも事実でした.
 そのため,とある部署の方に「帰ったら?」と帰宅を促したところ
 「私は古い人間なので」
と返されました.上司が帰らないと帰れないし,そうすることで波風を立てないということです.

⚫︎「中野より早く帰る」

 そのため,労働局にいた時に,本省では遅くまで残ることがあるとは一応は聞いていたのですが,異動した初日である2004年4月1日,係長から業務を指示されたわけでもなく,国会の対応で待機という指示がなされたこともなかったため,定時になった際,上司(課長補佐)の前に行き,「お先に失礼します」と言って退庁しました.
 その理由は,昨日の夜に自動車で福井から横浜(のはずれの方にある)官舎に到着し,ガスは使えない,水は出るが風呂は入れないという状態で,部屋の中には車に積んできた荷物しかないという状態でしたので,ガスの開栓の立ち会いや荷物の片付けもしなければならなかったため,そのような行動をとったものでした.
 しかし,私の行動を見ていた他の係員は,ちょっとだけざわついたそうです.
 ここまでお話ししてもすぐに理解できないと思いますが,要するに,普通はしないことを私がやってしまったということです.
 後から聞いたことですが,私が帰った後,何を思ったのか,課長も課長補佐も,いつもなら長居するところ,その日はそそくさと帰ってしまったそうです.
 そして,残された係員らは,仕事をしているふりをする必要もなくなり,珍しく早い時間に上司の重圧から解放されたということでした.私が周囲の職員と同じように残っていればそのようなことはなかったのだろうと思われます.
 そのようなこともあり,同じ部署の係員の中で,上司が早く帰ったり,あるいは休暇中だったりした時には,「中野より早く帰る」というのがちょっとしたブームになったようです.
 なお,その時は,係長に帰宅して良いかを確認したところ「いいよ」と返ってきたため,当然のように帰宅したまででしたが,おそらく,本音と建前が別のところにあったのだと今更ながらに思い返されます.

⚫︎理不尽で不合理な決裁

 本省では,所属する部署の以外の部署からも決裁をもらうときは,上着を着て革靴を履き,自ら決裁書を持って回らなかければならないことや,部屋の中を移動する時に,特定の係員の後ろを通ってはならない,などの暗黙の了解がありましたが,誰もそれを教えてはくれませんでした.
 そのため,前任者から引き継ぎを受けた案件で,サンダルばきでワイシャツの袖をまくって決裁に行った時は,その課長補佐は何もない様子で印鑑を押してくれましたが,私の直属の上司である係長のところに,別の部署の係長からお叱りの電話がすぐにきました.
 また,監督署では,決裁は,決裁板が勝手に上司から署長まで回覧されて,必要があれば説明を求められることはありましたが,自分で上司のところまで行くことはありませんでした.しかし,本省では,決裁をする職員(主に係長と課長補佐さらには書記(局長の秘書)など)が在籍していることを確認して,自らその席まで行き,
 「これは意味あんのか?」
と思うようなやり取りをして印鑑をもらっていくという,恐ろしいほど不合理なシステムでした.
 ちなみに,監督署では,決裁に対して押印して承認すること,あるいは注意することはその上司にとって部下を管理するための業務でもあったため,お互いに効率よくこれを行うということが当然となっていましたが,本省では,印鑑を押す決裁権者の方々は「押してやっている」という認識だったようで,そのため急ぎの場合には,担当の課長補佐が戻ってくるまで廊下で待ち続けるということもしょっちゅうありました.
 今では,ハラスメント防止が法令に規定されたため,その所管省庁としてだいぶ状況が良くなったと聞いていますが,私にとっては,公務員という業務を処理する義務がありながら,それに反して不合理なことを押し付けることが理解できず「ここはどこ?いつの時代?」と疑問を抱くほど,本省でのしきたりが理解できませんでした.
 なお,一度,書記から受けた質問に対して「それはこの件と関係ありません(ので確認していません)」と答えたところ,顔を真っ赤にして怒られたことがありました.私のそのような受け答えも問題があったのだろうと思いますが,「ハァ〜」と思いながら,その質問の回答を探すために,調べものをしたのちに,再び決裁を求めました.
 その時の書記は「ああ,その関係ね」という何に納得したのかわかりませんが,印鑑を押してくれました.

⚫︎課長補佐との喧嘩の毎日

 また,所属する部署では,直属の上司は係長でしたが,その上にいる課長補佐(通称として「班長」と呼ばれますが,省庁毎に微妙にその職員の構成は異なっていたようです)とは毎日のように喧嘩をしていました.
 その理由は,とにかく,高圧的な態度であったことや,無理なことを要求して決裁を戻したりするということがよくあったからです.なお,私の前任者も,その上司とはしょっちゅう喧嘩をしていたと聞いています.
 その部署では,その上司が嫌で,他の係員は,机の上の両サイドに,自分の頭よりも高く書類を積み上げ(ペーパーレスなどという言葉はありません),その間に挟まれてパソコンを操作して仕事をしていた,あるいは仕事をしているふりをしていました.そうする理由は,周囲,特にその上司と目を合わせないためです.目が合えば,難癖をつけられるからです.本省に異動して間もない頃,その上司が私(次席)と私の隣の席(三席)の係員の後ろに来たと思ったら
 「何をしているんだ」
と急に怒鳴りつけられたことがありました.私の頭には「何を怒っているの?」と「?」マークが浮かんだのですが,単に,どのような業務を行なっているのかを確認したというただそれだけのことでした.
 ただ,その上司が部下に対して高圧的に接する理由があり,それは,単純には「仕事をしない」という目的があったからです.本人からそう聞いたわけではありませんが,そのように理解できます.

⚫︎人事評価=減点方式

 実際のところ,本当かどうかわかりませんが,その当時,人事評価というものが制度化されていなかったため,何を基準に人事等が決まっていたかは我々平の係員は知る由がありませんでした.ところが,とある方から聞いた限りでは, いわゆる減点方式で人事評価が行われるということでした.
 そのため,何か仕事で良いことをやったとしてもそれほど評価は上がらず,むしろミスをしないということが重要だったそうです.そうすると人間はどうするか?
 仕事をしなければミスをする事はありません.だから基本的に仕事をしないという方向で対応をすることになり,上司に相談をしても突き返され,それを解決するという方向に進めようとしないことになります.それが,その上司の態度に現れていたというと考えるとよく理解できるようになりました.
 実際,一緒に仕事をした2年間の最後の方に,とある難題があり,他の部署と折衝しなければならないことがありました.
 上司にその報告をし,同席することを求めたところ,色々と難癖をつけられましたが,私がそれが難しいことを説明したところ,本当は同席したくなかったのだろうと思いますが,それが避け難いことを理解したのか,顔を真っ赤にして,逃げ出すように慌てて1階の喫煙所に降りて行きました(16階からです).
 そして,一服してようやく落ち着きを取り戻したのか,部署に戻ってくるなり,私に対してなんと答えたか分かりませんが,一応,他の部署との折衝に同席するという事だけは了解が得らたということがありました.

 このほかにも,その上司とは色々と喧嘩をし,「気に入らないならやめろ」と言われたことや,手に持っていた辞書を机に叩きつけられて怒鳴られたこともありました.私が至らなかったということや態度が悪かったことも時にはありましたし,立場的に,言葉を尽くして説得しなければならなかったのかもしれなかったなあと,今になっては思うところですが,お互い様かなとも思っています.
 部署とそこでの人によるところが多いにありますが,本省での私の最初の2年間は,とにかく,上司との対立が激しく,不合理で不合理でたまらない,そんな2年間でした.

⚫︎補償課での業務

 忘れていました.その時の業務のことを話していませんでした.
 補償課で行なっていた業務は,通勤災害係という名前でしたが,通勤災害よりも,第三者行為災害や特別加入といった,労災補償業務の主流とは言い難いことを担当していました.
 第三者行為災害は,簡単に言えば,仕事中のケガだけど,交通事故のように加害者がいる場合を言います.加害者がいるため,「それについても労災で支払うの?」という疑問が湧きます.「加害者が支払えよ」という意味です.そのため,その調整の方法を考えたりするという担当でした.
 ちなみに,当時,通勤災害に関する法改正があり,直接ではありませんが,間接的に関わることがあり,法改正を直接担当する係(法規係)との対立が激しく,こちらの点でも,なかなかストレスフルな日々を過ごしたことを思い出します.

⚫︎労使関係担当参事官室4係

 これに対して,後半の2年間(正確には1年11か月)は,対照的な部署に配属となりました.政策統括官(労働担当)労使関係担当参事官室の4係というところです.
 ここは,実は,ほとんど残業という残業がない部署でした.
 そのため,この部署に来る方は,それ以前に他の多忙な部署での業務を耐え抜いたご褒美に「2年間ゆっくりしてね」という意味で移動してくる場合と,誤解を恐れずにいえば,仕事ができない人がやってくる場合がありました.
 私の場合は,おそらく,そのどちらにも当たるのだと思います.
 実は,その前年の人事ヒアリングの際,さすがに本省で喧嘩ばかりして4年間過ごすのは心身ともに消耗してしまうと思い,本省から出してくれと頼んだことがあり,その影響で,この部署に異動になったといえばそうかもしれません.
 そうではなく,やはり,上司とあれだけのドンパチを日常的にやっていれば,仕事ができないかどうかは別にして,評価は下がってしまってもおかしくなく,そのような意味で異動になったというのが本当かもしれません.
 ちなみに,その部署に配属された方が,その部署のことを,自虐的に「掃き溜め」と呼んでいたことがあるのはここだけの話です.

⚫︎労働組合

 ただ,その部署は,「労使関係」という名称のとおり,労働組合に関する業務を行う部署で,簡単に言うと,行政と労働組合とのパイプを維持することが目的とされたようなところでした.
 ご存知の方はいると思いますが,我が国には,労働組合のナショナルセンターと呼ばれる組織がいくつかあり,その中で,最も有名なのが連合です(全労連さんごめんなさい.全労協が今もあるのかは知りません.).
 連合は,総評と同盟という団体が統一して誕生したものと聞いていますが,それ以前の労働運動は,政治的ないし政治闘争により,その要求を実現することが主流だったようです.
 ところが,連合が誕生してからは,関連する省庁,特に厚生労働省の厚生労働審議会に組合から委員を送り込み,審議会の意見を形成する過程で,組合の考えをこれに反映させ,それにより法改正等の要求を実現させるという方針に転換したということでした.
 そのため,その連合等の労働組合が,労働行政に対してどのような意見を有しているのか,そのような情報を収集するとともに,労働組合と行政との関係を維持するために,その部署での業務が行われていました.なお,労働組合は,憲法にもその存在が予定されていますので,その運動の経過を行政として記録するために,労働運動史などの資料の作成もその部署が行なっていました.
 私の担当は,公務員の労働組合でしたので,関係する労働組合等に毎日のように足を運んでは,組合の状況を聞いたり,定期大会を傍聴させてもらったり,あるいは,事務作業をしたりとそんな毎日を過ごさせてもらいましたが,不合理な理由で残業する必要もなく,そのような意味ではストレスが少ない部署ではありました.他方で,人間関係を引き継ぎ,維持し,あるいは築くという点では,結構な技術が求められたといえばその通りでした.

 なお,この部署で勤務したおかげで,弁護士となってから労働組合関係の相談や依頼を受けると,「どこの組織か」というのはすぐにイメージが湧き,当時関わってくださった組合の関係者を懐かしく思い出す反面,その方々が今の私を見てどう思うかを考えながら,「とほほ」と思いながら仕事をさせていただいています.