⚫︎ きっかけ
司法試験を受けようと思ったのは,実は意外に古く,労働基準監督署で勤務していた時でした.きっかけは,2年目の時に,とある上司が検察を指して「志がある方は目指してみてもいいかもね」ということをいったことが最初といえば最初です.
労働基準監督官は,司法警察員として捜査をして,事件を検察庁(検察官)に送致します.世の中の仕組みとして,常識と言えば常識ですが,これまで物理や数学といったことにしか関わってこなかった私からすれば全く知らない世界でした.
しかし,自分が現実にそのような仕組みに関わるようになったこと,労働基準監督官となったことで,初めて,法律という道具を使うようになったこと,そのための研修等で法曹の方々の話を聞く機会にも恵まれたことで,「司法」の世界に少しだけ興味を持つようになりました.
そのため,本当に合格できるかどうかはわからないけど,とりあえず受けてみようと思ったのが最初で,霞が関に異動になった年に,初めて,択一試験というものを受験しました.
⚫︎ 制度が変わったからという「言い訳」
その結果は散々なもので,司法試験の洗礼を受けたような気持ちになりました.
以前,労働基準監督署で勤務していた際,相談に来られた方から「私は司法試験を受験したこともありますからそれぐらいわかります」と言われたことがありましたが,それと比較して,自分のことを「何もわかっていないなぁ」と思ったものでした.
それを含め,霞が関で勤務する間に,合計4回の択一試験を受験しましたが,いずれも惨敗でした.一応,通勤の満員電車の中で本を読み,時間を見つけては問題を解くなどして勉強をしたつもりではいましたが,やはり,結果が出ない以上十分ではなかったというのが事実です.
ところが,その頃,ロースクールができ,法科大学院を卒業しなければ司法試験が受験できない社会となることが決定されました.そのため,私にとって,司法試験にあと3回しか挑戦できないという現実を突きつけられました.
そして,その時に考えたことが,あと3回で合格できなかったとしても
「制度が変わったから仕方ないよね」
と言い訳をして諦めることになれば,合格できなかった自尊心を傷つけることなく,のちの人生に言い訳できるかなということでした.
しかし,自分自身として,そのような言い訳を想像したことが許せず,当時,とある俳優さんが
「途中で諦めたら,最初から何もしなかったことになる」
といっていたことを思い出し,公務員を退職して,退路を絶って挑戦しようということで,公務員を辞めて,あと3回の試験に挑んだところ,幸いにして,最後から2回目の試験で無事に最終合格することができました.
⚫︎ 「公務員としてもうやることはない」
このようにいえば,カッコいいようにも思われますが,実は,公務員を続けることに行き詰まったというのも正直な理由でもありました.
公務員の場合,給与の額は俸級と号俸というもので決められ勤務年数が増えれば増えるほど級も号も上がる仕組みになっていました.また,当然ながら,それに伴い役職も上がり,さらには,退職までにどの部署(役所)のどの席に座って仕事をするかも見えてくる,そんな将来が約束された(言い方を変えれば,そこにいる限り逃げられない)世界でした.
労働基準監督官としての仕事は面白く,霞が関から異動する時は,再び,現場で仕事をするという選択肢もありましたが,自分の乗っているレールとその向かう先が見えることに違和感を感じ,現場であっても,そこに戻るという選択を積極的にしようとは思いませんでした.
かといって,本省でこれまでのように,不合理な環境で仕事を続ける気にもならず,どうしようかと考えていた時に,とあることが起こりました.それは,役所の内部的な不正が明らかとなった時に,何も自分ができなかったということです.
このことは,新聞でも報道され,公になった上で一応の処理がされました.
そのころに伝え聞いた話では,当時の厚生労働大臣は,これが公表される前に,関係する部署からの報告を受けた時に「必要悪だよね」といったそうです.
これが公表されるまでは,自分の知らないところで,限られた職員だけがそのことの対応を行なっていました.どのような手順で公表するか,そのために退職した関係者も含めてどのような対応を求めるかということが内部的に検討されていたものだと思います(詳細については想像でしかありません.).
ところが,とある時に,自分がコピーを取るために複合機のところにいったところ,送信済みのファックスで,送信者がこれをとり忘れたため,そのままそこに残っているものを見つけました.
記載されていた内容は,そのとき問題とされた不正のことで,当時,一般の職員は知ることはできないもので,当然,マスコミなどにも公にされていないものでした.
私はそれをどうしたか?
何もできませんでした.
頭をよぎったことは,「〇〇の議員にファックスすれば,国会で追及されるよね」ということや,そうした場合に,そのことが明るみになったときの自分の処遇や,そうなった時の家族のことなどでした.
元々,霞が関で何が行われているのかをみたいというのが最初にあり,公務員として働くことに絶対的な使命感があったわけではなく,どちらかというと,公務員になるにあたり不遇な扱いをされ,その存在やあり方に対して疑問を感じを持ちながら,公務員になったものです.
「信号無視はしないがタバコのポイ捨てをすること」を嫌っていたのに,それなのに,不正の一端が明らかとされうる資料を自らの手に取ったときに何もできない自分しかそこにはいなく,そうである以上
「公務員としてもうやることはない」
という思いになったものでした.
このことが,公務員を辞めて,退路を経ち,司法試験に臨ませた出来事でした.
もちろん,最初の方にお話しした当時の上司の言葉なども私にきっかけを与えたものではありましたが,やはり,このことがなければ,本気で司法試験に取り組むことなく,「死んだ魚のような目」で今でも公務員を続けていたと思います.
⚫︎ 「親のすねかじり」での受験勉強
公務員退職の際,退職後にどこに住み,どのようにして生活を立てようかと迷いましたが,両親が「戻っておいで」といってくれたことで,実家でお世話になることになりました.この歳になってまで親のスネをかじることに迷いはあったものの,甘んじてそれを受け入れました.
また,実家に戻ってから勉強のできる環境を探したところ,幸いにして近くの大学院の図書館が,一般利用も受け入れていたことから,勉強する環境は整いました.
公務員を退職してから,残りの試験はあと3回となっていましたが,その頃の蓄えは,2年間を想定したものでした.そのため,あわよくば1回目で合格できればと思いながら試験に臨んだところ,初めて択一試験は合格することができましたが,論文試験で不合格となってしまいました.
⚫︎ 図書館と神社とバイク屋
この頃,毎日,図書館の開館(8時頃だったと思います)と同時に受付を済ませ,基本的には17時頃までそこで勉強しました.
昼食用に,おにぎり2個と水筒に入れたお茶を持参し,予備校の模擬試験があるときは予備校まで行ってから図書館で勉強するという日々でした.
そのため,予備校での模擬試験の結果が悪い時は,図書館の談話室で,自分のこれからの将来を想像し,不安な気持ちで「どうなるんだろうか」と思いながらおにぎりをかじったことをよく覚えています.近くにある高校の高校生も図書館を利用することがあり,未来ある高校生のキラキラした感じを横目で見ながら,どんよりとした雰囲気を醸し出していたはずです.
しかし,図書館の帰りには,毎日,近くの神社に立ち寄り,「合格します」(「合格しますように」ではありません。)と祈願するとともに,さらに,自宅までの帰路の途中にバイク屋があるのですが,その前で必ず立ち止まり,そのガラス越しに展示されているバイク(Suzukiの隼)に向かって「合格して必ず迎え(購入し)にくるからね」と話しかけて,自己暗示をかける日々を過ごしました.
⚫︎ 「〇〇〇〇〇パン」不採用
ところで,公務員退職後の1回目の試験で合格ができなかったとき,改めて,自分の経済的な状況を分析しました.そこで感じたことが,
「予定していたよりも貯金が溶けていくのが早い」
ということでした.
役所に勤めていたときは,税金も保険料も給料から勝手に引かれ,預金口座に振り込まれた金額で生活すればよかったため,これら保険料などを支払わなければならないという感覚が非常に乏しかったところ,公務員を退職後,給料という収入がない中で,保険料と税金の負担が,予想以上に重くのしかかりました.その時の感想は
「家賃はいらないとしても,保険と税金でここまでかかるのか」
というのが率直なところでした.
そのため,1回目の受験で失敗した時に考えたことは
「アルバイトをしよう」
ということでした.
そこで,最初に求人を見て応募したのが,福岡県では有名な某パン工場でしたが,面接の際に提示した履歴書を見ながら,その時の人事担当者が,明らかに
「東京工業大学」
「厚生労働省」
という経歴に即座に反応したのが手に取るようにわかりました.不採用となったのは,そのためだと理解しています.
そこで次に応募したのが,新聞配達店でしたが,最初に応募したところには,面接の結果採用されなかったのですが,次に面接をしてくれた福岡市内の販売店で採用され,新聞配達をしながら試験勉強をするという,なかなか興味深い日々の生活が始まりました.
⚫︎ 新聞配達と受験勉強
その新聞配達店(当時)は,午前3時頃にその日の朝刊がトラックで配送され,販売店の中で,各配達員が,担当する部数の朝刊に広告を挟み(折込チラシですね),それをホンダのスーパーカブなどの燃費の良い業務用のバイクのカゴと荷台に積み込み,配達に出発するというのが業務の通常の流れでした.
そのため,これまで普通(?)に生活していたのが,20時に布団に入り,2時に起床し,袋ラーメンの麺と水を入れた鍋を火にかけ,身支度を整え,そうするうちに茹で上がったラーメンを朝食として食べて,新聞配達店に出かけるという生活を,約1年4か月続けることになりました.
ところで,当時の私にとっての新聞配達のイメージといえば,漫画「キャプテン翼」に出てくる日向小次郎が,サッカーボールを蹴りながら配達するという場面しかありませんでした.
しかし,大人になり,大型バイクの免許も有する以上は,販売店の用意する原付バイクに乗らない理由はありません.新聞の束を脇に抱え,バスケットボールでドリブルをしながら配達をするようなことには,間違ってもなりません.
そして,その業務の内容からすれば,大学卒業後に派遣された工場での単純作業と同様,正確さと速さ(早さ)の限界に挑戦するという日々を過ごすこととなったのは当然の流れでした.
⚫︎「静かにしろ」
実際のところ,速さ(早さ)という意味では,配達だけでなく,新聞の折込を行うという作業が最初の関門で,次が,速さそのものではありませんが,原付バイクの前カゴと荷台にどれだけの量の新聞を載せて出発できるかが試されます.もし,一度に全部を積みきれなければ,途中で販売店まで戻らなければならなくなり,大幅な時間のロストなるからです.
その上で,配達をいかに正確に早く行うかが自分との戦いとなります.
基本的には,マンション内を走ることぐらいしか時間を短縮する方法がなく,当然のよう走って配達をしていたところ,とある部屋の窓が空き「静かにしろ」といわれたことがありました.これ以降,マンション内で走って配達することができなくなりました.
確かにそうです.ドタドタと足音がうるさいのはその通りだと思いますが,私がくることを待ち構えて,そこを通る時を伺い,ジャストのタイミングで窓を開けて私を呼び止めたマンションの住人さんは,それ以前から,私の足音で快眠が妨害されたのだと思います.本当にすみません.
⚫︎ 歩道は走るな!
ただ,新聞配達の興味深いところは,明け方の社会が動き出す頃よりもの前の時間帯であっても,確実にその時間を生きている方がいるということです.
例えば,1回だけですが,新聞配達の途中に,警察に怒鳴られて呼び止められたことがあります.とある配達場所から次の場所に行くために,歩道上を原付バイクで走っていたところ,パトカーのスピーカーでどやされました.
確かに,この時は,歩道を走る必要性はありませんでした.ただ,警察の方も,違反切符を切るわけではなく,免許証を確認し「隣の家とかにいく時は目をつぶるけど,さすがにその距離はまずい」と注意を受けただけで済みました.助かりましたが,おそらく,いつも,その時間帯にパトロールをされていたのだと思います.
また,他の新聞販売店の配達員と同じ時間帯に,同じ場所ですれ違うということが当たり前のように続くため,妙な親近感を覚えたものでした(通勤の際に,いつもの時間帯に,知り合いではないけれど,いつもの顔ぶれの乗客の顔を見ると安心するような感覚です.).
⚫︎ 名前も連絡先も知らないいつもの配達員
司法試験には,公務員を辞めてから2回目の挑戦で,無事に合格することができました.口述試験というのが千葉県の浦安で3日間かけて行われますが,その時以外は,新聞の休刊日を除いて毎日,新聞を配達しました.また,司法試験合格後も,2011年4月からスタートする司法修習の直前まで,合計して,およそ1年4か月続けました.
最後の配達日,他の販売店の方で,とあるマンションでいつも一緒になる方がいたのですが,その日も,そのマンションで同じように顔を合わせました.
それ以前のとある日に,エレベーターで上に行く際,彼がその階の配達をしてエレベータに乗り込むまで,少しの時間でしたので,ドアを開けたまま待っていたことがありました.それをきっかけに,顔を合わせれば,お互いにエレベーターの融通をし合う間柄になりました.
最後の配達日,「今日が最後なんです」ということを事前に伝えていたところ,その日は,エレベーターを降りたところで,少しだけお互いの身の上話をして最後の配達を終えました.
彼がタバコに火をつけて,その1本を吸い終わるまでのわずかな時間でしたが,少しだけお互いのことを話せたことは今でも良い思い出として記憶に残っています.
それぞれ,別の販売店に雇われ,配達を早く終わらせることに越したことはない以上,そんな早朝の時間帯に,相手のためにエレベーターを待つような必要がなかったといえば全くなかったわけです.
しかし,次に進む階が同じ方向であれば,ちょっとだけエレベーターのドアを開けて,他方がその階の配達を終えて乗り込んでくるのを待つという,ただそれだけのことですが,毎日顔を合わせる中で妙な信頼関係が生まれたことを,今でも,ふと思い出すことがあります.
名前も連絡先も,どこの誰かということを知らなくても,ただそれだけのことですが,毎日を気持ちよく過ごせたことに今でも感謝しています.
⚫︎ 最初の顧問先
ちなみに,この新聞配達店の所長は,私が弁護士となった時に,最初に顧問契約をしてくれた方です.
新聞の契約をしながら,最初の粗品を目当てにするだけで,それ以後の購読料を支払わない方がいると,購読料をちゃんと支払ってくれる他の購読者に対して申し訳ないということで,わずかな購読料ですが,その取り立てのための,費用を払ってでも依頼をしてくれた,そんな方です.
最初に,私のことを弁護士と認識してくれた方でもあり,浪人時代に配達員として雇ってくれた方でもありますので,学生時代のアルバイト先の店長と同様,足を向けて寝ることができない数少ない方のうちの,一人でもあります.
⚫︎ 試験の結果
なお,司法試験自体は,論文試験は,うろ覚えですが,合計105人の合格者のうち,96番目の成績で合格できたものです(106人のうちの95番目かもしれませんが,はっきりとは覚えていません.).
口述試験を経て,最終合格の際は,(確か)66番目という順位(おそらく,論文の試験よりも順位が上がったのは,同順位の方が多いためだと思います)で合格することができました.
新聞配達をしたことで,規則正しい生活ができ,それに合わせて図書館という環境で(ほぼ)毎日勉強する時間を確保できたことが大きかったと思いますが,司法試験そのものよりも,それに至るまでのことが改めて思い出され,懐かしい限りです.