大学生(私生活・バイト編)

 私の大学生活が暗いものだったことは別のところでご紹介した通りですが,それ以外(部活は除く)の生活がどうだったかというと,以外に楽しいこともありました.
 その大きな要因は,アルバイトです.

⚫︎〇〇ストアでの品出し

 大学1年生の頃は,某スーパーで品出しのアルバイトをしました.
 お中元の短期バイトに申し込んだのがきっかけで,その後も続けないかと声をかけていただいたのがきっかけです.
 その職場では,高校生も一緒にアルバイトとして仕事をしていたため,女子であればルーズソックスやミニスカート(制服です),男子であれば腰パン(パンツを見せるような履き方)といった,自分が高校生の頃には,まさにテレビでしか見たことのなかった東京の高校生を体現したような(一応)年下の方々とも一緒に働きました.

⚫︎焼き鳥「駅」下丸子店

 そして,大学2年生からは,やや距離のあるスーパーは辞めて,下宿先の近くにあった焼き鳥屋でアルバイトを始めました.これが,大学生活の転機でした.
 このお店は,雇われ(正確には委託を受けた)店長が,「お店」の入れ物と「看板」を本部から与えられ,本部に対するロイヤリティー(本部料)を支払いながら,独立採算で経営をするという経営形態でした.
 その店長は,アルバイトに対し,「飯と酒は不自由させない」というモットーのもと,仕事中は絶対に飲酒することはなく,その代わり,営業が終われば,その日のアルバイトと一緒に,朝まで酒食を共にするという毎日を過ごしている方でした.
 そのため,アルバイトが終わると,店長や他のバイト仲間とそのまま一緒にお店でお酒を飲んだり,あるいはその時間帯でも営業している飲食店に行ったりしていましたので,とにかく,アルバイトをすればお金が稼げて,しかも,食事とお酒代が節約でき,さらには,その時間にお金を使うことがないため,とても良い生活・経済の循環ができるという環境でした.

⚫︎お酒

 当然といえばその通りですが,高校卒業まで飲酒をするようなことはなく,大学生となってもまだ未成年だった私が,20歳になると同時に始めた焼き鳥屋のアルバイトでお酒を覚えたのはいうまでもありません.
 入店当初は,「硬い」「真面目」などの印象を周囲から持たれていたようですし,方言も抜けておらず話す言葉も数少なく,大学での生活と同様に,アルバイト以外の交流はありませんでした.
 ところが,お店の閉店を担当する遅番のシフトに入り,その日,閉店後に初めて店長やアルバイト仲間とお酒を飲むことになりました.
 そうしたところ,お酒のおかげでキャラが完全に崩壊してしましました.
 簡単にいうと陽気になるというただそれだけのことなんですが,普段とのギャップが大きいせいか,周囲(といっても酒飲みばかりです)からは,とても歓迎されてしまいました.
 また,お酒を飲み始めると,私の場合,自分の限界まで飲み続けて,いつも酔い潰れてしまうのですが,意外に飲める方だったようで,大学生活以外では,お酒を介したコミュニケーションを取る機会がとても増えました.

⚫︎飲食店の経営?

 アルバイトでは,そこでの業務も,そのお店がカウンターとテーブルを合わせても30人入れば満席となるようなところでしたので,忙しい時は,店長とアルバイトの2人で調理,仕込み,接客,後片付けの全てをこなさなければならないこともあり,素早くかつ継続的に仕事をさばくための高い能力が求められました.
 一緒の時期に採用された方がいましたが,仕事についていけず辞めてしまった方もいますし,私が採用されたのちも,採用されては辞めていく方が何名もいました.
 私の場合,幸いにしてお酒を飲むことだけでなく,仕事のスキルについても認めてもらえたため,最終的には,店長から「あとよろしく」と鍵を渡され,店長不在の中で仕事をすることもありました.そして,丸一日の営業を任されることもあり,その時は,お店を開けて炭の火起こしなどの開店準備から,焼き鳥を焼くなどの調理全般及びレジ締めの上,閉店後の作業まで任されるようになりました.
 もちろん,すぐにそうできるようになったわけではありません.
 仕事をこなすという以外の面では,例えば,お客のギャグに愛想笑いができないなどの問題点があり,店長からは,このような融通の効かない硬い性格に苦言を呈されることもありましたが,最終的には,そのようなことも含めて,ある程度の客対応もできるようになりました.

 また,飲食店で仕事をする方々の中には,将来,自分の店を持ちたいという方もいて,このお店でも何人かは,そのようなことを考えて仕事をしていました.
 とある時,そのうちの1人の方から,お店の開店に出資してくれるという方を紹介され,「一緒にやらないか」と誘われたことがありました.
 確かに,その頃の私にとって,飲食業は天職とも呼んで良いぐらいにこなせていましたので,そのような話を受けることも人生の選択肢としてあったのですが,その頃は大学院への進学やその後の研究職のことしか将来の職業としてのイメージがなく,飲食業で生計を立てることのイメージが持てませんでした.
 そのため,そのお誘いは,嬉しい限りではありましたが,お断りさせていただきました.

⚫︎店長=足を向けて寝られない存在

 そんなこともあり,そこでのアルバイトは,友人がおらず暗い大学での生活とは対象的なもので,勉強,部活以外で,私の大学生生活を占めるものとなりました.
 そのため,そのような機会を与えてくれた店長には感謝してもしたりません.
 アルバイトとして仕事を提供して給料を支払ってくれるだけでなく,食事もお酒も,そしてアルバイトの仲間との交流の機会を与え,焼き鳥の焼き方からホールでの振舞いという仕事のこなし方だけでなく,仕事に対する考え方を教えてくれました.
 今でも思い出しますが,成人の日(当時は20歳)には,そのために東京から福岡に帰省する高校の同期もいましたが,私の場合,年末年始を含め,この日も,当然のようにアルバイをしていました.
 お店には,私を含めて4人の同年齢のバイト仲間がいましたが,私以外の3人は地元が東京でしたので,成人式には参加し,アルバイトをすることはなかったのですが,店長は,その年に成人を迎えたアルバイト4人を,それぞれ,個別に成人のお祝いとして焼肉に連れて行ってくれました.
 正直,私については,アルバイトとして使いにくいやつだったと思いますが,最後まで雇ってくれた店長には,いまだに足を向けて寝ることはできません.

⚫︎「お世話になりました」→「お前変わんねえな」

 ちなみに,そのアルバイトを辞めたのは,大学4年生の頃だったと思いますが,店長と私の2人で,非常に忙しい日の営業をこなしていた中で,仕事のやり方をめぐり,喧嘩別れしたというのがその理由です.
 仕事を終え,22時から遅番で入った別のバイトに引き継ぎをして,仕事を終えようとしたところ「次(のシフト)はどうする」という店長の言葉に対して,「お世話になりました」と私が返し,その場で店の鍵を返却したことで,アルバイト自体は,その日に辞めてしまったというものでした.
 このことは,私の性格や,仕事に対するこだわりが原因だったのは間違いありません.その日を境に,安定したアルバイト先を失うことになってしまいました.また,当然ですが,店長との(雇用)関係も終了し,それ以降,関わりを持つことがないことが当然だったと言えます.
 もっとも,閉店後のお店には,店長と仕事を終えたアルバイトがお酒を飲んでいるのが常だったことは先にお話しした通りです.そのため,店を辞めてから2週間後,アルバイト仲間と一緒に,プライベートで私がお酒を飲んでいたところ,「店長に会いに行こう」ということになり,酔っ払った勢いで,そのままお店にむかいました.
 そして,喧嘩別れをしてたった2週間後でしたが,店長から,酔っ払った私に対してその姿のことだと思いますが,「お前変わんねえな」とのありがたい言葉を頂戴しました.

⚫︎店長への恩返し

 なお,だからと言って,そのお店に戻ることはありませんでした.その代わり,そのアルバイト先の系列店で何度かアルバイトをしました.
 その中で,新規オープンで採用されたお店で働いた初日,経営者である本部の方々(役員)が団体でそのお店にやってきたところ,私のホールでの対応を高く評価してくださいました.
 その際,本部の方が,私について「〇〇さん(店長)のところでバイトしていたこと」を知ったらしく,それにより,本部の方から店長の教育能力が高く評価されたようです.このことは,昔のバイト仲間からの伝え聞いたことですが,そのことを話す店長の様子がまんざらでもなかったようで,私としては,あのような形でバイトは辞めてしまいましたが,この時だけは,少しは恩返しができたかな思ったところでした.

⚫︎初めての派遣業

 アルバイト先のお店を辞めてからは,大学の卒論や公務員試験の勉強もあり,大学を卒業してから公務員試験の結果が出るまでは,アルバイトができませんでした.
 2000年10月に,労働基準監督官としての採用が正式に決まってから,同系列の飲食店で2回ほど仕事をしましたが,そこでの責任者よりも(あるいは同じ程度に)私が仕事ができたため,人間関係の問題もあり,辞めてしまいました.
 しかし,無職のままぶらぶらするわけにもいかず,生活費を稼ぐ必要もあり,派遣会社に登録しました.そして,何回かのスポットで派遣されたのち,とある工場での仕事を紹介されました.それが,神奈川県横浜市にある自動車部品工場でした.
 ここでの仕事は,毎日毎日同じ作業の繰り返しでしたが,労働基準監督官として任官する2週間ほど前までの,約4か月ほど勤務しました.

⚫︎やすりがけと電着

 そこでは,プレスを使った金属板の成型,各部品同士の溶接,塗装,そして部品同士の組み立て等の行程を経て,出来上がった製品を自動車メーカーに出荷するということを行なっていました.なお,作っていたのはトラックとなる部品のいくつかで,そこの社員さんは,みな,例外なく車好きばかりでした.
 その作業の中で,電着という方法で大量の部品の塗装を行う工程があるのですが,そのために,たくさんのフックのある台車に部品を掛ける作業があります.私には,その作業が与えられ,そこからは,毎日毎日同じ作業を繰り返し行う日々が続きました.
 その作業は,台車に細かな部品を吊り下げていくもので,吊り下げられた部品は,塗料となる化学溶剤の中につけ込まれ,そこに電圧をかけることで塗料が部品に付着して塗装されるという仕組みでした.
 しかし,電着を行うと,部品だけでなく,部品を吊り下げるフックのついた台車も塗装されてしまい,これにより電気が部品に流れにくくなり,塗装がうまくいかなくなります.そのため,部品をフックにかける前に,ヤスリで,たくさんあるフックに付着した塗装を剥がすという作業が必要となり,やすりがけ,部品を掛ける,やすりがけ,部品を掛ける,やすりがけ・・・という作業を毎日のように繰り返しました.
 確かに,うまく塗装のされた製品は,光沢のある黒に染め上げられ,その黒光りする様子は工業製品としての美しさを有していましたが,その感動が業務の原動力になるかというと正直あまりならず,4か月間という短い間でしたが,飽きっぽい私にとってはかなりの苦痛が伴いました.
 他方で,たまに部品の組み立てに回されることもありました.その時は,いかに早くたくさんの部品を組み上げられるかというのがそこでの力関係を基礎付けることが暗黙の了解となっていました.
 私自身,自分との戦いというものに結構夢中になって取り組むタチでしたが,さすがに,社員の方には一度も勝つことができませんでした.

 その頃の生活は,自動車部品工場へ通うため,毎朝5時に起床し,朝食と弁当を作り,7時過ぎには下宿先を自転車またはバイクで出発する毎日でした.
 工場内では,安全靴を履いて歩く時に聞こえるカランカランという音,油まみれの革手,機械から発せられる騒音が工場内に響き渡り,そこらじゅうで火花を散らしながら溶接が行われるなかで,単調な作業をいつまでもいつまでも繰り返しました.
 そのため,帰宅後は,疲れ果てて酒を飲む元気もなく,22時前に寝るという,かなり健康的な毎日を過ごしましたが,今思うと,再びこの仕事をやれと言われても,なかなか難しいだろうと思います.

⚫︎日本語とポルトガル語

 その工場では,日系ブラジル人が何人か働いていましたが,何回かペアになって仕事をした方の印象がとても強く残っています.
 その方は,40歳を過ぎてから来日し,その工場で働いているということでした.配偶者(妻)がポルトガル語を母語として,日本語の教師をしているため,来日したとのことでした.
 今思えば,その方は,周囲の日本語を話す従業員と問題なくコミュニケーションが取れていましたが,その際には,私たちの言葉を理解するために頭の中ではフル回転で日本語がポルトガル語に翻訳され,ポルトガル語が日本語に翻訳されて,カタコトの日本語ではありましたが,発語されていたのだと思います.今となっては,当たり前のことだと思いますが,とても凄いことに思えます.
 その頃の私は,大学生の語学力の実状から,外国語を学ぶには,早ければ早い方がよく,大人になってから始めたのではとてもとても間に合わないと考えていました.そのため,40過ぎてから日本語を学び始め,カタコトであってもコミュニケーションを取ることができる彼に対して,尊敬の念を抱いていました.
 そのため,ある時「すごいですね」と伝えたところ,「なんとかなるよ」と当たり前のように返されました.
 その時は,生活や人生がかかれば,外国語を話すこともなんとかなるのかなと漠然と思っただけでしたが,この時のことを思い出すと,いまだに英語すらろくに話せない(話そうとしないまま生きてきた)自分のことが,とても情けなく思われます.

⚫︎初めての「偽装請負」

 その工場では,実をいうと,私の身分は,「派遣」ではなく「請負」でした.当時,製造業に派遣することが禁止されていたからです.
 そのため,私の肩書きは「構内請負」の作業員でしたが,だからと言って,勝手に仕事ができるわけでもなく,指導的な立場の方の指示に従い作業を行いました.
 その方は,定年退職前でしたが,その会社の役職を引退し「主幹」という肩書きを与えられた方でした.たまたまですが,私の父と同じ年齢でした.
 私の初めての勤務の時に,その方は,昼食を準備していなかった私に,社員食堂の定食の券を「使っていいよ」と差し出し渡してくれました(もちろん,後日,食券を購入してお返ししました.).
 焼き鳥屋と違い,そこでの仕事に愛着等はそれほどありませんでしたが,ちょっとだけ心残りのことがあります.それは,その方(主幹)に挨拶をすることなく退職したことです.
 2001年の3月なかばの最終勤務日,私はいつものように出勤しましたが,その方は,その前の日から忌引休暇でお休みでした.お母様が亡くなったためとのことでした,最初の出勤日に食券をいただいたこともあり,最後に挨拶をしてと思っていましたが,それができないまま今に至ってます.
 そういえば,最後の出勤日の前々日,終業後,暗くなった休憩所のストーブの前で,そのストーブのオレンジ色の明かりに照らされながら,その方が1人でタバコを吸っていた光景が今でも思い出されます.
 おそらく,お母様の最後を迎えるための心の準備をしていたのだと思います.