大学生活については別でお話ししたとおりですが,公務員をになることを決意したことと,その後大学を卒業するまでのことをここではお話しします.キーワードは,人生で初めての(大学院)不合格と卒論です。
⚫︎大学院と不合格
私の通った大学は,その8割の学生が大学院(修士課程)に進むようなところでした.その反対に,大学4年を卒業して就職する方は全体の2割程度で,修士課程を修了して,大学の研究室の推薦を経るなどして就職する方がほとんどでした.
修士課程を終えると,就職ではなく,研究を続けるために大学院の博士課程に進む方もいて,さらには,博士課程を3年で卒業することなく,さらに大学に残って研究を続けるポスドクと呼ばれる方々もいました.
私の場合も,例外なく大学院に進もうと思っていました.
当時,アルバイト先の店長から,アルバイト先での私の振る舞いを見て,私が社会に出た時に不安だということを言われたことがあるのですが,「研究者になるので大丈夫です」と言っていたぐらいですので,当たり前のように大学院に進学する,進学できると思っていました.
しかし,そのような楽観的な考えとは反対に,なんと,大学院の入試に不合格となってしまいました.大学院の入試では,東工大と東大を受験したのですが,いずれも不合格となってしまいました.
この時,実は,人生で初めて入試で不合格となってしまい,何をどうして良いのか分からないというか,「どういうこと?」と自分自身,その結果に対してどのようなリアクションを取ったら良いかも分からない状況でした.
⚫︎不合格の理由
実は,大学3年次までの成績だけでいえば,学科(45人程度)の中で3番目だったようです(一応,口頭でそのように聞きました.). このことからもご理解いただけると思いますが,勉強はちゃんとしていたんです.
ただ,高望みをしたと言えばそのとおりですが,ちょっとハードルの高い研究室を受験したこともあり,合格点に届きませんでした.なお,東工大の院試の点数だけであれば,80人ほどの志願者中,30番以内に入っていたので,別の研究室を志望していれば問題なく合格していたと聞かされました.
ただ,包み隠さず言えば,実は,大学院に進むことに疑問を抱いていたのが,面接の際に出てしまったのが,不合格に大きく影響しています.
今となってはそのような生き方もありといえばありかなと思いますが,大学院を受験した多くの受験生は,私の知る限り,4年生になるまであまり勉強していない学生が多く,「進路」に直面した途端,大学院の入試のために勉強を始める方がほとんどでした.
実際,卒業すら危うかった人が,大学院に進学が決まっているからという理由で大目に見てもらい,卒業できたという話を聞いたこともあります(真実かどうかは知りませんが,他の事情を含めれば,あながち嘘ではないと思います.).
そして,受験生のほとんどが,面接の際には「〇〇を研究したいです」ということを述べて,無難に院試をクリアしていくという状況でした.
当時の私は,そのような柔軟な思考ができず,これまでまともに勉強もしなかったのに,なぜ,急に「〜に関心があります」などと述べることができるのか理解に苦しみました.
そして,自分自身,大学の頃に勉強はしたと言っても,相対的に彼らよりは勉強したという程度で,酒も飲めば部活でバスケもするし,私生活ではバイトやバイクといった勉強以外のこともやっている,そんな自分も「大学院に進んで〇〇がしたい」と胸を張っていうことができるのだろうか,結局は彼らと同じではないかと考えるようになり,大学院進学に大きな疑問を抱くようになってしまいまいた.
その結果,嘘をつけない私です.嘘をつけばすぐに顔に出ます.
東大での面接の時に自分の顔がこわばっているのが自分自身よく感じていました.人生であの時ほど,本心と裏腹なことを答えることで声が震えたことはありません.
他方で,東工大での面接の時は,東大に合格したらどうすると尋ねられ,「東大に行きます」と答えたぐらいですから,良い印象を持ってくれるはずはありません.
その時に,それ以外になんと答えたかはもう忘れましたが,当時の所属先であり志望先であった研究室の准教授(当時の助教授)からは,「他の学生が昇降演算子を作用させて固有値や固有ベクトルが変わることに感動したと答えていたが,君はそういうことを答えられなかった」と言われたことは覚えています.
また,研究室の先輩で博士課程に在籍していた方からは,院試の面接について「そんな時は,『先生の書かれた著書「複素関数入門」の内容に感動しました』といっておけば良かったのに」と軽く残念がられたことも覚えています.
⚫︎人生の選択
大学院の入試に落ちたことがきっかけで,自分の人生について,今後どうするかを真面目に考えることになりました.というか,考えざるを得なくなりました.
そうですよね,これまでは,レールが敷かれ,その上で「試験」というものを受験しただけですから,ここでは,どのようなレールが人生に存在するのか,そのレールに乗るとどうなるのか,あるいは,そんなレールが存在するのかしないのかを考えなければなりませんでした.
ここで考えたことが二つありました.一つは,残りの大学生活をどう過ごすか,もう一つは,その後の(人生の)進路をどうするかということでした.
当時のことを考えれば,アルバイトをしながら,大学を卒業だけしてダラダラと時間を過ごし,進路についての結論を先延ばしにするという選択肢もあるにはあったと思います.
そうできるのは若い時の特権だと思いますし,確かに,自分一人生きていくというだけであればアルバイトを少し増やせば東京での生活を続けることも不可能ではありませんでした.
また,アルバイトの影響ですが,一緒にお店(飲食店)をしようと声をかけられたことも何回かあったほどですから,「フリーター」という身分になれば,それなりにいい仕事はできたんだろうと思います.
ただ,根が真面目で臆病者な私ですから,結局どうしたか.
一つ目については,大学4年間(正確には3年までに受けた講義)の中で,最も理解できなかった「関数解析Ⅲ」について勉強しなおして,それを卒論のテーマにしようと考えました.
これ以上大学に残ることがないのであれば,何か思い残すことがあってはいけないと思い何をするかを考えました.そして,全く分からなかったのに,単位は取得できたことに違和感を強く感じたこの「関数解析Ⅲ」について,単位をもらったことが嘘ではなかった,間違いではなかったと言えるだけの理解を身につけようと,この時は考えたものでした.
二つ目については,公務員になろうというものでした.その理由は,大学に残って研究を続けるということ,つまり,研究室という一般的な社会からはやや離れたところで「自分は研究者ですから」といって,社会に無関心に生きていくことについて懐疑的だったこともあり(だから院試の面接はボロボロだったわけですが),社会に関与して生きていこう,東京で,霞が関や永田町と呼ばれる場所で何が行われているのかを見てみたい,関わってみたいと考えたからです.
⚫︎卒論=「関数解析」
これにより卒論のテーマは決まりましたが,それを前提に何をしたかというと,100年以上も前に,既に確立された理論ですから,とにかく教科書の内容を理解するという,ただただ「勉強」ということをひたすら行いました.
ただ,所属研究室の当時の助教授がいうには,学部生としてはやや難解なことであるため,どうなるのかと思いながら見ていたようです.その内容が数学に属することであったために,確かにそうなのかもしれません.数学科に卒論がなかったことを考えれば,確かにそう思えます.
そのため,自主的な勉強に任せてしまうとどうなるか分からないため,その内容を週1回のゼミの場で発表をするということになりましたが,当然,教科書を見ながらということはできません.
メモ程度のものは手控えとして用意はしていましたが,ほぼ,空で修士1年の先輩に対して,私がその時に勉強した「関数解析」を講義するということを行いました(もちろん教授の行った講義や教科書のまる暗記ではありません.).
なお,その先輩からすれば,全く関心のない分野で,しかも学部生からすれば比較的難解な部類に入る理論の説明を受けても面白いと思うはずがありません.しかし,つまらなさそうな顔を見せることなく,卒業までの残りの期間を辛抱強く付き合ってくださいました.
⚫︎助教授の言葉 > 卒業証書
この時の卒論の勉強のおかげで,私の論理的思考は相当鍛えられました.この時間を過ごさなければ,おそらく,司法試験は合格していないと思いますし,仮に合格したとしても論理性の乏しい薄っぺらい書面(裁判所に提出する準備書面)しか作れなかったと思います.
その結果,卒論の発表も終わり,あとは卒業するだけという時期になった頃,あまりソリの合わなかった助教授から「本当は君に(大学院に)来て欲しかったんだ」と言われました.
それまでは,助教授に対し,公務員試験を受験すると伝えた際に「大学に残らなかったら後悔するぞ」などと言われることはありましたが,ソリが合わなかったこともあり,衝突することも多く,「それがどうした」と内心思って過ごしていましたので,そのように言われた時は「今になってそんなこと言ってもしょうがないよね,次の進む方向は決めてしまったし」ぐらいにしか思いませんでした.
ただ,このプロフィールを作成するにあたり,当時のことを改めて思い返せば,指導担当者と学生というお互いの立場で,色々と面白くないことはありましたが,最終的に,私の卒論への取り組み方などを評価していただけたのだと思います.
大学卒業後,大学の卒業証書を何かに活用したことは一度もありません.「東工大卒業」が「大学卒業」以上に意味を持ったことはありません.
そのような意味では,その時の助教授の言葉は,自分にとって,卒業証書よりもありがたいものだったと思えます.