⚫︎「履歴書に書けない期間」
別でお話ししましたように,大学は無事に卒業しました.
その時の感覚は「履歴書に書けない期間ができてしまった」というのがその時の率直な感想で,すでに公務員試験を受験するという決意をするだけのハードルは超えてしまっていましたので,それ以上の何か精神的なハードルを感じることはありませんでした.
ちなみに,大学院に進まずに公務員になるという決断は大学在学中にしたものでしたので,周囲の友人の反応は次のようなものでした.
単純に私の進路に心配してくれる方もいましたし,その反面,友人らは,私の選択を逆に羨ましくいう方もいたほどでした.友人らも,その時までの私と同じくイレギュラーな人生の選択をしたことがなかったからです.
また,私の判断を尊重しながら,世界を驚かせる研究をしたいと自分の将来を語ってくれる方もいました.暗く,友人のいない大学生活ではありましたが,少数ではありますがそのような友人ができたことも事実です.4年間って意外にそのような意味では十分な時間だったのかもしれません.
⚫︎「もう社会人なのか」
そうはいっても,文系の大学と異なり,官僚を目指す方々が先輩を含めて周囲にいるわけではなかったため,やはり,初めて1人で色々なことに取り組まなければならない状況に置かれました.心配してくれる友人に頼るわけにもいきません.
なお,大学3年生の頃に,高校の同期が短大を卒業して就職したということを風の噂で聞いたことがありました.
その時に感じた感覚は「もう社会人なのか」という半ばゾッとするような,自分が社会に出ることが想像できないことに対する恐怖感にも似た感覚でした.しかし,今回は,自分がその立場に置かれたこと,自分の話を聞いてゾッとする方がいるかもしれないと思うと,とても奇妙に感じられました.
そして,卒論の勉強と並行して,大学の生協に予備校の販売する公務員試験講座のパンフレットを取りに行くことから公務員試験の勉強がスタートしました.
⚫︎受験勉強と精神状態
当時の公務員試験は,今もそうなんだと思いますが,一般教養というような範囲から,数的推理といった数学の考え方を用いるパズルのようなものまで幅広く,それとは別に専門科目ということで,物理を選択して勉強を行いました.
大学を卒業したのちは,「通う場所がない」ということの現実的な意味が試験勉強中の私に容赦無く襲いかかりました.
どういうことかというと,誰とも話さないまま1週間が当たり前に過ぎていくということです.受験仲間がいれば違っていたと思いますが,そんな都合の良い人間関係は皆無でした.そのため,試験を間近に控えた5月頃は,いつでも発狂できそうな精神状態で毎日を過ごしていたことを覚えています.
そうしたところ,ちょうど6月1日に,福岡の父方の祖父が他界し,急遽,帰省することとなりました.試験前の大事な時間ではありましたが,反対に,家族や親族に会うことで精神状況がある程度ケアされ,精神状況は安定し,かえって,それ以降の勉強を安定して行うことができました.
ちなみに,祖父は,戦前の「家長」制度をその当時も当然のように実践していた感があり,幼い頃から,とても怖い存在でした.それなのに,最後の最後にそのような試験前の休息を与えてくれたこともあり,祖父に対しては,いまだに頭が上がらない気持ちでいます.
⚫︎2勝2敗
公務員試験の結果は,2勝(労働基準監督官,国家2種)2敗(国家1種,防衛施設庁試験)でした.
現在,どのような試験区分となっているかは知りませんが,当時の国家1種試験,同2種試験,労働基準監督官試験,防衛施設庁試験(?)の4つの試験を受験しました.
⚫︎国家1種試験
第1志望は国家1種で,いわゆるキャリア官僚になるための試験でした.
一次試験であるマークシートはパスし,官庁訪問も行いましたが,公務員採用についての他大学の学生との情報の格差や,先輩後輩というコネクションの格差をまざまざと見せつけられ,全く思うようには行きませんでした.
話に聞くところによると,一次試験を通ったと同時に,官僚養成学校(東大)出身の学生などは,先輩を訪ね,試験合格の報告をし,内々定をもらい,二次試験の勉強に進むというのが通例だったようです(当時の財務省は特にそうだったようです.他も多かれ少なかれ同様だと思います.).
また,当然といえば当然ですが,試験区分により採用区分も異なり,物理で受験しようとした私には,特許庁,気象庁,文部科学省,厚生労働省,環境省,警察庁,経済産業省,国税庁等のうち,技官としての採用を予定するわずかな枠しか用意されていませんでした.
そのため,訪問の予約のために各窓口に電話をかけ,ようやく面談に漕ぎ着けても,人気のある省庁からは,なかなか良い反応はかえってきません.
⚫︎信号無視とタバコのポイ捨て
ちなみに,官庁訪問の中で内々定を得るには,上記のような先輩とのコネクションがない場合,面接を行い,そこでの評価が良ければ次の面接に進み,それを繰り返して最終的な決定権を持つ担当者の面接まで漕ぎ着け,最終的な内々定を得なければなりませんでした.
先輩とのコネもない,情報交換できる受験仲間もいない,採用区分も狭いという現実の中で,自分の立場が不遇だと感じれば,当然ながら,霞が関の公務員のいやな面も見えてきます(今思い返すと「ヒクツ」という言葉がその時の私にはピッタリです.).その時思ったことは,「公務員は,信号無視はしないけど,タバコのポイ捨てはするよね」ということでした.
その意味は,タバコのポイ捨ては,そうしたところで目立たないから安易に行うのに対して,信号無視は目立つからやらないという意味です.
霞が関では,お昼休みなると,ここぞとばかりに多くの職員が,昼食を取るために各庁舎から出てきます.そのため,主要な交差点の横断歩道付近の歩道には,かなりの数の役人と思われる方々が,信号待ちをして立っている光景があちらこちらに出現します.
しかし,霞が関周辺の道路は,一部を除けば,常に交通量が多いかというとそういうわけではなく,横断歩道の前で赤信号が変わるのを待っていても,私の感覚からすれば,「今,渡れるよね」ということは良く起こりうるものでしたが,誰1人信号無視をする方はいませんでした.
その反面,その信号待ちをする時,タバコの吸い殻をその場におとして,足で揉み消す人を何回も見かけました.
面接の際,このことをとある面接担当者(環境省の方だったと思います)に伝えたところ「確かにそうだね」と苦笑いをされていました.
⚫︎「圧迫面接?」「次の面接の日程ですが」「結構です」
人生初の就職活動で,人生初の官庁訪問で,そのような負の印象ばかりが目立ってしまい,次第に公務員に対する疑問や不満が膨らんでいきます.
もちろん,公職としての理想像のようなものだけを信じ,情報収集も疎かにした私が悪いといえばそうなのですが,やはり,面白くないわけです.そのため,大学院の入試の時と同じように,官庁訪問の際の面接でも,そのような態度が思わず出てしまうことがありました.
確か,警察庁での面接だったと思いますが,いわゆる圧迫面接が行われました.
隣に座って順番を待っていた方が,受験仲間からの情報だと思いますが,圧迫面接が行われるということ教えてくれました.実際,私よりも先に面接を受けた方が肩を落として帰っていく姿を見ていたのですが,その時は,「圧迫面接?」という程度で,その意味をよく理解していませんでした.
そうしたところ,高圧的な態度で,当時の私にとっては答えにくい質問が繰り返され,それが続くたため,思わず,「それはさすがに受験生に対して(聞くのは)酷です」と答えてしまいました.顔にも怒りのような不満な表情が出ていたと思います.
警察庁の面接はこれで終わりだなと思い,部屋から出て帰路に着こうとしていたところ,面接官ではない受付の事務を担当していた方から「次の面接の日程ですが」と声をかけられました.私としては「?」となりましたが,先ほどまで行われた面接に対する不満から,「結構です」と断ってそのまま帰ってしまいました.
次の面接の声をかけられない方もいたことからすれば,「あれでよかったのか?」いまだに謎です.
なお,その当時,「踊る大捜査線」という刑事ドラマが流行っていたため,その受付の方は,面接前の待ち時間の際に,ドラマに出てくる役職名の方が実際にどのような立場で業務を行うかなどの説明をして下さった方でした.
そのため,その方に対して悪い印象は何もなかったのですが,思わずそのような対応をしてしまったため,やや,驚いたような表情をされていたように思います.
⚫︎不合格と人事院での面接「他の方に任せられない?」
そんなこんなで,官庁訪問では,内々定を得ることはできないまま,2次試験と人事院の実施する面接に進むこととなりました.
なお,特許庁からは,私に対して内々定を出しても良い旨のメールをいただき,ありがたいことではありましたが,お断りをしました.社会に関与して生きていこうということで目指した公務員でしたので,特許の申請を処理して毎日を過ごすのは,当時は,全く想像できませんでした.
そして,国家1種の二次試験ですが,見事落ちてしまいました.
単純に筆記試験と論文が悪かったということだと思いますが,面接でも再びやってしまいました.
それは,志望動機を聞かれたからだったか,どのような質問に対してそう答えたかはもう忘れましたが,先に申し上げました「信号無視はしないけど,タバコのポイ捨てはするよね」ということを述べた上で,
「他の方に任せられないから私がやります」
と面接官の前で答えたというものです.「啖呵を切った」という方がその時の様子を正確に表すかもしれません.その時の心情としてはそのような感じでした.
今思えば,そんなこと言うやつを合格させるわけがないと言われればその通りですが,まあ,そんな生き方しかできないのは今も昔も変わらないなぁと,改めて思うところです.
⚫︎就職活動の終了=労働基準監督官試験の合格
そうはいっても,仕事に就いて収入を得なければなりません.
その点で,幸にして,労働基準監督官試験に合格し,面接もクリアし,無事に採用されることとなりました.でも,なぜ,労働基準監督官試験を受験したか?
単純なことです,国家1種の採用試験と,試験科目の多くが重複したからです.
労働基準監督官試験は,文系だけでなく,理系からも採用することを予定していたため,その時は,物理ではなく数学で受験しましたが,一般教養や数的推理などは国家1種試験とほぼ同じ内容(難易度はやや下がります)でしたので,日程も違うため受験したというそれだけのことでした.
また,この時,国家2種も合格し,文部科学省の所轄するどこかの研究機関か大学だったと思いますが,声をかけていただきましたが,これについては,労働基準監督官の内定を得た後でしたのでお断りいたしました.
2000年10月,厚生労働省から内定通知を受け,正式な申込みを行い,私の人生初めての就職活動は終了しました.
⚫︎ニューヨーク旅行と赤ワイン
なお,公務員試験とは全く関係ありませんが,就職が決まったらやろうと思っていたことがありました.それは,ニューヨークに旅行することでした.
当時の私の中で,ニューヨーク,ロンドン,東京が世界の大都市との認識で,東京で4年間を過ごしたのだから,次は,どちらかの街を見たいという思いが強くあったからです.それとは別に,当時好きだったアーティスト(女性のソロです)の歌詞の中に「ニューヨーク」という言葉が何度か出てきたのを聞いていたことも強く影響しています.
その時は,1人で海外に行くのは初めてでしたので,どうしようかと考えながら旅行代理店の前を2往復ほどして悩みました.この時は,バイクの旅の楽しさにも目覚めていたため,「北海道に行きたい」という思いと天秤にかけた上で,「北海道の10月はもう冬だろう」と考え,意を決して入店し,4泊6日(だったと思います)の旅行を申し込みました.
大学生の頃に,2回,友人らとオーストラリアに行ったことはありましたが,今回は1人で行くことは当然として,オーストラリアと異なり観光客として歓迎されるという雰囲気もなく,しかも,極度の時差ボケによる眠気と戦いながら,日本での日常生活ではなかなか経験しないことを,ドキドキしながら楽しんできました.
今は開放されていないかもしれませんが,自由の女神像やエンパイアーステートビルにも登り,ただの観光気分丸出しでその時の時間を楽しみました.
地下鉄の中やセントラルパークのスラム街寄りの場所を歩いていたときは,少し怖い出来事にも遭遇したり,ニューヨーカーの真似をして,早朝に,アメリカンコーヒーとシナモンの効いたドーナツを屋台で買ったり,チャイナタウンで食べきれないほどの焼きそばを無理して平らげたり,色々と興味深い経験ができましたが,帰りの飛行機の中で出された赤ワインの美味しさが今でも忘れられません.
大学の同期が大学院の修士課程に進み研究漬けとなっている中で,院試に不合格となった結果論ではありますが,人と違う選択をしながらも,一応の次の進路を手にしたことのご褒美としては,120%ともいっても良いと思えるだけの,良い思い出となりました.