鉄と戦争

 機動戦士ガンダムの世界のように,宇宙に人が住み,さらには,スペースコロニーという巨大で,それ自体が回転することで遠心力による擬似的な重力を生み出し多くの人が住みうるだけの居住空間まで作れる,そんな世界はいつか訪れるのでしょうか?

 ずいぶん以前に,新聞で「実現できない」とコメントが載っていました。

 私自身,実際にガンダムのようなロボットがあれだけの激しい戦いを繰り広げうるだけの世界は訪れないと考える方です。
 その理由は,あれだけの衝撃に耐えうる(変形もしない)だけの強度を,現在ある金属では生み出せないと考えるからです。

 しかし,その新聞のコメントの理由は違っており,その理由は,「地球上にスペースコロニーを作るだけの鉄がない」ということでしたが,とても納得できました。

 実際,地球上の元素の中で,多いものは,順番に酸素,ケイ素,アルミ,鉄,カルシウムだそうです。地球と同規模とは言わないまでも,あれだけのスペースコロニーを作るだけの資源が確かにあるとは思えません。
 人類が採掘し資源として活用しているのは地球のほんの表面に存在するものに過ぎません。地球の奥深くまで採掘することができたとしても,流石にあれだけの量を確保することは困難と思われます。

 ウクライナとロシアとの間では,ドローンを活用した先の大戦とは異なった武器が多く使用されているようですが,やはり,鉄の砲弾に相当依拠したもののようです。
 戦争それ自体もそうですが,限られた資源が,そのような目的に使用されるという観点からも,早期停戦に至ることを祈りたいです。

保護猫

 昨日の夜,家族が慌てて家を出て行ったかと思ったところ,生後1週間ほどと思われる子猫1匹を抱いて帰ってきました。
 親猫とはぐれてしまったようで,向かいのアパートの階段の下で泣いていたということでした。他にもまだ子猫がいるかもしれませんが,1匹だけ保護しました。

 現在,我が家には,7匹の先住猫がいます。
 実は,以前住んでいたアパートで,猫を保護したことが見つかって追い出されたため,現在の住まいに転居してきました。
 この話をすると「あなた弁護士ですよね?」とほぼ言われます。

 転居後,特に保護猫活動をしようという気はなかったのですが,川を挟んだ向かいのマンションに複数の野良猫がいて,住民が餌付けするなどしていたため(与えるのはほとんど残飯で後片付けもしない酷い状態です),それを保護し,何匹かは譲渡しましたが,現在7匹と同居するに至っています。

 向いのマンションで野良猫を見ることも無くなったため,猫を保護することももうないだろうと思っていたところ,約1年半ぶりの保護猫活動をホームセンターにミルクを買いに行くことでスタートしました。

 当分の間は,2時間おきに温めたミルクをスポイドで与え,排尿を促して,暖かくした段ボール箱の中に寝かしつけるという生活が繰返し行われる予定です。

 猫を引き取りたいという方,是非,ご連絡ください。もちろん,猫と同居するに相応しい準備をしていただける方に限ります。

 

空気のようなもの

 本日は,憲法記念日です。
 新聞に,「憲法とは空気のようなもの。失うと苦しくなり,初めてその存在にきづく」という趣旨の記載がありました。

 とある知人が,以前,「憲法?なくていいものでしょ?」と言っていましたが,まさに憲法の規定が存在することによって,自由を謳歌しての発言だと理解できます。何不自由なく生きられている証です。

 私自身,弁護士になるまで,正確には,司法試験の勉強を始めるまでは,憲法が何たるものかを十分には理解していませんでした。
 しかし,その存在により,自由を享受できていることに,今更ながらに気付かされています。

 この記事が,これをご覧になった方にとって,少しでも,憲法について関心を持つためのきっかけになれば幸いです。

天災のたびに思うこと

 少し前ですが,夜中,豊後水道を震源地とする地震が発生しました。

 私の自宅も大きな揺れを感じましたが,翌日の新聞を見ると,自宅のあたりは震度3だったようです。
 年始の能登の地震と被害は現在も回復されていませんが,今回の地震でも,ここ(自宅)よりも震源地に近い場所では,より大きな揺れを感じ実際に被害も出たのではないかと思います。

 このような地球規模の天災とも呼べる自然現象に触れ,それから生じる力の大きさを改めて認識するたびに改めて思い知らされることがあります。

 それは,人間・人類の存在がいかに小さなものであるかということです。
 そして,それと同時に,人間同士の争いにより,お互いの命を奪い合うことがいかに愚かであるかということです。

 他方で,この時は,こんなことも考えました。

 戦争等で他人の命を奪うことに抵抗のない方たちからすれば,そうすることが当然の帰結,考え方なのかもしれないということです。
 つまり,人類として,自然の力に抗えないのであれば,せめて,人類の中においては,他人の命を奪ってでも,自らの意に沿うように他者に強いることで,人類の中での相対的な優位性を手に入れることも当然だと考えうるということです。

 職業柄,あるいは,これまで生きてきたことで,他者の存在や自分と異なる考え方があることに寛容でなければならないと考えることがある程度はできるようになってきたつもりです。
 そのため,戦争や紛争を積極的に支持する人たちが,上記のようなことまでは考えていないかもしれませんが,後者のような考えも,一応の理屈があるように考えられるかもしれません。

 しかし,人類が,いずれの考え方を取り,どう行動すべきか。

 中東,アフリカ,ウクライナの戦争(紛争)に,あるいは,台湾海峡の緊張感に,心が休まることがありません。

判決の抽象的な理由について

 2024年4月16日,事業場外みなし労働時間制の適用が問題となった事件について,最高裁が判決を言い渡しました。結果として,同制度の適用の可否について,再度,審理させるべく福岡高裁に差し戻しました。

その中で,最高裁は,次のようなことをその理由としています。

「しかしながら,上記①については,単に業務の相手方に対して問い合わせるなどの方法を採り得ることを一般的に指摘するものにすぎず,実習実施者等に確認するという方法の現実的な可能性や実効性等は,具体的には明らかでない。上記②についても,上告人は,本件規定を適用せず残業手当を支払ったのは,業務日報の記載のみによらずに被上告人の労働時間を把握し得た場合に限られる旨主張しており, この主張の当否を検討しなければ上告人が業務日報の正確性を前提としていたともいえない上,上告人が一定の場合に残業手当を支払っていた事実のみをもって,業務日報の正確性が客観的に担保されていたなどと評価することができるものでもない。」

 下線は私が引いたものですが,要するに,理由が一般的抽象的すぎて,本当かどうかが怪しいということを言うものです。だから,もう一度,審理をし直すべきだという判断が示されたものと理解できます。

 裁判では,一般的抽象的な理由で一方に不利益を課す場合が多くあります。
 具体的な事実や証拠に基づくことであればやむを得ないのですが,裁判官として,何らかの理由を付して,自己の判断に説得性を持たせようとするために,抽象的なものであっても理由として付けるのだと推測します。

 私も,行政職員として,許認可等を判断してきたこともあるため,気持ちはわからなくはありませんが,これにより不利益を課される方は,やはり納得できない気持ちにしかなりません。

 裁判は,神様しかわからないことについて判断を求められることがあり(刑事裁判での故意や責任能力などは特にそうです),裁判所はその判断から逃げることはできませんが,わからないことはわからないという前提で判断することも良いのではないでしょうか。
 その場合,刑事事件では,「疑わしきは被告人の利益に」という言葉があるように,多くは,無罪につながる結果となり得るものと思われますが,それでも,冤罪を生み出すよりは,価値があると思います。
 民事事件でも,証拠による裁判が基本とされる以上,それはやむを得ないものであり,裁判官の想像で判断されるよりは,より説得的ではないかと思われます。

 上記最高裁判決は,そのような一般的・抽象的な理由だけで業務日報が正確だという判断をして,使用者に不利益を課した判断に誤りがあるとしたものです。最高裁も常にそのように,具体的な理由づけを求めるものではありませんが,そのような観点で,判決の質の向上が図られればと考えます。
 もちろん,そのためには,弁護士の適切な活動や技量が影響することはそのとおりだと思いますので,改めて,能力を高め,技術を磨くよう心がけたいと思います。

「死刑」とその告知について

 死刑判決を受けた死刑囚に対して,当日に執行を告知することの是非が争われた裁判で,当日に告知することも 合理的であるという判断が判決で示されました。
 これについてどう思うか。

 この点,死刑自体の賛成か反対を 尋ねられれば,私自身は反対派です。
 理由は人の命よりも,国家やそれ以外の「何か」がそれを上回る地位を得てしまうからです。この「何か」を肯定する考えが認められることになれば,やはり,それ以外の場面でも人命が軽視されることが当然の流れとなってしまいかねないません。ですから,やはり私としては,死刑自体は反対という立場です。

 では,冒頭の問題についてですが,これについては考えてしまいます。
 ただ,制度を執行する国の立場で,こうすることが合理的だと決めてしまうことには危惧します。

 死刑制度がどのように運用されているのか,私も含めて,多くの国民にとってブラックボックスとなっています。
 死刑の執行方法として,絞首刑が採られていることすら多くの方は知りません。この点をとって,残虐な刑であり,憲法に違反するとの意見もあります。

 死刑について,国から多くの情報が開示され,国民の間でその賛否だけでなく,執行方法といった細かな点まで,議論が進むことを期待したいところです。

「日本人」とは?

 「日本人」とは,何をもって日本人というのでしょうか?

 国籍法では,第1条が「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」と規定し,出生の時に両親のいずれかが日本人である場合や,外国人の帰化が認められた場合などに日本国籍を取得するとされています。

 ところで,NHKのHPに次のような記載があります。

 「ノーベル賞 これまでに受賞した日本人は米国籍取得者含め28人」

https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2023/feature/article_06.html

 ノーベル賞の受賞時に日本国籍を有していたかどうかまでは明記されていませんが,国籍法の要件では日本人に該当しない方について,ここでは「日本人」と呼んでいます。

 他方で,肌の色,髪の色,目の色などにより,国籍法の日本人の要件を満たしながらも,見た目を理由に,直ちに同じ日本人と認識してもらえない,あるいは,あなたが日本人として認識しないことがこれまでになかったでしょうか?

 反対に,世界的に有名なスポーツ選手で,日本人として認識され,そのパフォーマンスを理由に(肌の色,髪の色,目の色などに関わらず)多くの賞賛を得ている方々がいますが,そのような我々の反応について何か感じることはないでしょうか?

 私自身,今では,「日本人」という要件により日本人とそれ以外の人とを区別することにどれだけの意味があるのか(もちろん,絶対的にどのような場面であっても不要とまではいいません。),そのようなことを考えるに至っています。
 しかし,幼少の頃からある程度の思慮分別がつくようになる頃まで,「日本人」という言葉から,とある典型的な特徴だけが想起され,そして,それとは異なる外形的な特徴を有する人を指して「日本人」という時に何か違和感を感じたことがあったはずです。

 自分自身の有する価値観に対して,無自覚にもそれを疑うことなく,また,それを批判することなく生きてきた時間が,あまりにも長かったと今更ながら思うところです。

 これ以上のことはここでは多くは述べませんが,私と同世代の方であれば,The Yellow Monkeyの「JAM」という曲を聞いたことがある方は少なくないと思います。その歌詞を今一度思い出していただき,以上のことについて,少しでも共感していただけると幸いです。

いじめと警察への通報

 学校内でのいじめ(暴行,傷害,その他)について,警察へ通報するケースが増えているとの報道に接しました。
 その記事の中で,学校では,「教え子を警察に売るのかという」意識が強く残っているとの記載もありました。
 しかし,このような考え方は肯定されるべきでしょうか?

 確かに,教師として教え子の将来を考える,あるいは,学校の指導により,加害者を更正させて問題を解決するということは,学校のありうべき姿かもしれません。
 しかし,この場合,被害者側からすれば,公平・公正な対応がされないという不満が生じる可能性は大いにありますし,学校の判断で,警察に通報するかしないかの裁量を有することは,学校としての中立性に疑問も生じかねません。

 少なくとも,「いじめ」という表現がされる行為・事件であっても,犯罪に当たる行為については,警察の捜査の対象としない理由はありません。

 その上で,加害者・被害者が同じ未成年者で学生という立場にあることは,その後の処分の際に考慮されるべきことのように思われます。
 「いじめ」であることを理由に,教師が,加害者の更正に強く関わるべきとの考え方については,警察に通報するかどうかではなく,司法手続に関与することで果たすべきではないかと思います。
 つまり,教師は,加害者が付される刑事裁判又は家庭裁判所の少年審判において,その更正に協力することを裁判所に対して申し出ることにより,加害者の更正に関与すべきではないかということです。

 異論はあるかもしれませんが,私自身,冒頭のような考え方については,教師としての矜持等を感じるところではありますが,やはり,手放しでこれを肯定することはできません。

誕生日と素数

本日(正確には,4月4日の経過)で,47歳となりました。

幼少の頃は,自分の誕生日が特別のものに思えていましたが,成人した以降は,両親に感謝するための日となりました。
そして,親となった今では,子供の誕生日の方が,特別なものに感じます。

ところで,47は,素数です。
1と47以外を約数に持ちません。
昨日までの46は,2と23を約数に持ちますので,素数ではありません。

こんなことを考えるのも,理系出身だからかも知れませんが,少しだけ他人とは違う視点を有しながら,斜め上の人生を歩めればと思います。

共同親権

 離婚後も,両親が共同で親権が行使するように法改正すべきかが審議されています。
 共同親権とすべきとの世の中の意見が強いように感じますが(多分,そう法改正はされるのだと思います。),少し,違った視点で私の感じる違和感を以下で述べたいと思います。

 「親権」とは,子供の財産を親が代わりに管理等することと,監護教育する権利をいいます。
 財産の管理等というのは,例えば,子供の習い事を親が申し込んだり,あるいは,子供の預貯金から,親が学費を支払ったりすることです。
 監護教育する権利は,子供と一緒に暮らして教育を行うことです。
 現在,法律を改正して共同親権を認めるべきかどうかについて,メリットやデメリットを挙げて議論されています。外国では,共同親権が主流のようですので,それとの歩調を合わせるという意味もあるように感じます。

 私としては,単独親権で良いと思っていますが,その理由は,単なるメリットとデメリットの比較・考察からではありません。共同親権とした場合,国が一定の方法を押し付けることになりかねないということを危惧するからです。冒頭で触れた私の違和感とはこのことです。

 そもそも,(両)親子の関係は,法律以前の問題です。
 親である以上,子供に対して責任を負うことは当然ですし,子の成長に関わりたいと思うことも自然なことです。その場合のあり方を法律で一律に定めてしまうことについて,強い違和感を覚えます。

 このことは,結婚についても当てはまります。
 パートナーを求めること自体は,人間として自然的な感情に由来するものです。法律上の婚姻という制度がなくとも,当然として行われます。
 そのため,もともと,人間にとって自然的なパートナーとの関係性について,国が法律により,後付けで,「婚姻関係とはこのような関係性をいう」と定め,そうしなければ,社会保障や税制上の利益をうけられないというのは,私としては息苦しさを感じます。
 同性婚が認められていない現状においては,その当事者にとっては,人として認められていないに等しいほどの感覚を覚えざるを得ないのだと思います。

 この点,先月,犯罪被害者給付金について,同性の事実婚の関係にあるパートナーに対しても給付すべきとの最高裁判決(令和6年3月26日)が出されました。このことは法律上の婚姻関係になければ利益を受けられないということを国が定め,そのことが社会的にも当然視されてしまう現状を変える一助になるものとして,私としては好意的に捉えています。

 ちなみに,夫婦同姓の問題も,これらと共通の原因によるものであると,私としては理解するところですが,とある大学の研究で興味深い結果が出たそうです。
 それは,夫婦同姓を維持した場合,2531年には日本国民全員が「佐藤」となってしまうというものです(東北大学高齢経済社会研究センターの吉田浩教授)。

 話を親権に戻しますと,共同親権の場合,共同であることが前提とされてしまいます。法律によりこれが強制されてしまいます。
 しかし,子供にどのような将来を提供するか,そのために子供の財産の管理等や監護教育をどのようにすべきかは,両親が離婚してもしなくても必要なものですし,単独親権であることを理由に,このことに両親が関わるべきことまで否定されることはないはずです。

 この点,単独親権を維持すべきとの立場から,離婚したとしても,単独親権となったとしても,離婚後も両親が子の養育に関与し得るようなサポートを国としては充実させるべきとの意見があるようです。
 私としては,このような意見は,傾聴に値すると考えます。
 例えば,産後まもない育児について,国は,これを両親が共に行うことは義務付けいませんし,いずれか一方が育児を負担し,他方が仕事に専念するということも禁止していません。ただ,そうした場合の問題点が指摘されるようになったことから,国は,共同で育児を負担し得るように,育児休業制度を制定し,利用を促進しています。決して,育児のあり方を法律で義務付けるものではありません。

 これと同じように,国は,離婚後であっても,子の両親が,同人らの間に存在する問題(おそらく離婚の原因になったこと)を解決し,共に,子の将来を考えて養育に参加できるような支援を行うように制度を整備することが優先されるべきと思います。
 単に,共同親権とすれば問題が解決されるというものではないはずです。

 以上,色々と述べたところですが,私は,基本的には離婚(や家事)の依頼は受けておりません。
 そのため,以上の意見は,実務を知らない素人的な発想の域をでないものかもしれませんが,共同親権の議論が,同姓姻や夫婦別姓などの問題と根本的なところで共通していると理解し,その点についての違和感を覚えたことによるものです。