ミルクソフトが作れない理由

「搾りたての牛乳とソフトクリームが商品にあって,ソフトクリームを作る機械もあるのに,なんでミルクソフトができないんだ?」

「それは、私がこの店のオーナーではないから。」

 これは,とある雑誌に載っていた,旅先での芸能人とソフトクリーム屋の店員とのやりとりです.確かに納得せざるを得ません.

 ところで,私のことですが,20年ほど前の一時期,知人らに対し,

「ロシアの大統領になって核兵器を全て放棄・廃棄して,アメリカにも核の放棄を求め,それによってノーベル平和賞を受賞する」

 と言っていたことがあります.
 これは,私が大学院に進まずに公務員となり,研究者を志すのやめた後のことです.
 ノーベル賞にこだわりがあったわけではありませんが,核兵器を放棄・廃棄すればノーベル賞がもらえるかもしれない,それができるのは誰だろうか,どういう立場なんだろうかという,安易な発想に基づく,冗談の域をでないものにすぎません.

 しかし,ロシアの大統領をはじめとする政府高官の方々,イスラエルおよびその紛争相手の軍事組織のそれぞれのトップの方々には,間違いなく,そうするだけの権限があるはずです.

 とりあえず,戦争辞めませんか?
 この地球上に,別にオーナーがいるというわけではないはずですよね.

刑務所の部屋を全て個室に

 刑務所には,受刑者が生活する空間として,複数名が共同で生活する雑居房と,1人部屋の独居房がありますが,原則,独居房にすべきではないでしょうか.

 このようなことを言うと,多くの方は,「?」となると思います.
 悪いことをした人に,快適な生活など与えてどうするという懲罰的な観念を有していれば,そのようなことをすべきではないという考えに至るのも自然といえば自然です.反対に,1人部屋だと寂しいだろうから,共同の部屋で良いはずとの考えもあるかもしれません.

 ところで,少し前ですが,放火犯で自らも重度の火傷を負いながら,医師による懸命な治療によって一命を取り留めた被告人が死刑判決を宣告されました.このことに対して,とある有名人が「死刑になるんだから,救わなくてもよかったのでは」という趣旨の発言をしたことがあります.
 しかし,死刑になるかどうかは裁判を経なければ確定しないことですし,そのようなプロセスを経なければならないものとされています.また,どのようなことをした(疑いのある)人であっても,目の前でその命が危機に晒されている以上,救命のための措置を受けられる,あるいは行うべきことは否定しようがありません.
 もしこれが否定されるのであれば,人間いつかは死ぬ以上,「どうせいつか死ぬんだから,治療しなくてもいいでしょ」といって,医療へのアクセスを拒否することすら正当化されかねません(行き着くところは,おそらく,納税額や前科などで選別されることになるのではないでしょうか.).
 上記のような発言ないし発想は安易すぎます.

 これと同様の考えに立てば,死刑囚であれば,死刑となるまでに拷問を行ったとしてもよいことにもなりそうですが,そうでしょうか.火事場泥棒も泥棒であることに違いなく,大きな法益が侵害される場合に,それよりも小さな法益侵害が常に許容されるとはいえません.震災があると,店の商品が略奪されることが日本でもあるようですが,許されることはありません.
 ずいぶん昔,とある男性の知人が「明日世界が滅びるなら,今日のうちに女性を襲う」と言ったことがありましたが,自分が反対の立場だったらと考えてみてください.絶対に許されないことはわかるはずです.

 ここで刑務所の話に戻れば,死刑囚(ここで,死刑の当否は措いておきます.)は,あくまでも,刑事責任として「生命」を奪われることが罰として定められているものです.それ以外の人としての尊厳を侵害されるべきではありません.
 懲役刑(拘禁刑)であれば,社会との隔離により自由が奪われるということも刑に含まれるのかもしれませんが,基本的には,役務に服することが刑罰となるはずです.しかし,だからといって,人としてのプライバシーなどが一切保障されないということにより,その点に苦痛を感じることまで甘受しなければならないといえるかというと違うはずです.

 また,刑務所は,受刑者の更生もその目的とされているはずです.
 そうだとすれば,社会復帰した際の生活環境を考えれば,共同生活が原則となることはないはずです.個室を原則とし,それとは別に,共有スペースを設け,他者との関わりを持ちうるだけの機会を確保するという方向で刑務所ないの環境が整えられるべきではないかと思います.

 なお,犯罪も行わず社会内で生活する人々の生活が大変な中,刑務所を快適にしてどうするという意見もあるかもしれませんが,刑務所内での人権保障の問題と,社会内での国民の生活保障をどうするかということとは別問題です.生活保護や年金の支給水準を高めるべきだという議論をすれば良いだけです.比較対象として適切ではないと思います.

 最後に,何でこんなことを話題にしたかというと,やはり,自分が刑務所に入ることがあるかもしれないと考えた時,全てのプライバシーを放棄させられ,共同生活を強いられることが一番の苦痛だと考えるからです.
 仮に,私が受刑者となることがあっても,それ以上に刑務所内でもWi-Fiが欲しいとかいうつもりはありません.刑に服するにあたっても,プライバシーの確保をはじめとして,ただただ,人としての尊厳は保障してほしいと切に願うものです.

「平和ボケ」に対する懺悔

 高校生の頃に行なった自分の発言について,軽率であり,共感性や想像力が欠けていたことを,ここで懺悔したいと思います。
 その発言は,東京の高層ビルや住宅等の建築物が密集した状況を見て,

「大地震が起きたら面白いだろう」

と述べたことです。

 今思えば,未熟というよりも,具体的な想像力に欠けていたのだろうと思います。
 また,違う言葉で言えば「平和ボケ」していたのだとも言えるかもしれません。

 ところで,ここで申し上げたいのは,この「平和ボケ」という言葉は,高校生の頃の私のように,共感性や想像力が欠け,ウクライナやガザ地区その他国際紛争が生じている地域の惨状を目の当たりにしながら,何も感じないことに対して使うべきだということです.
 連日のようにガレキや焼け跡が広がった惨状が映像で流れてくる中で,テレビやネットの向こう側で起こっている現実を他人事のように感じ,無関心となっている国民や政治家に対して使うべきです.
 今まさに,この国全体が平和ボケしているということを認識し,世界で起こっていることに対して,何ができるのか,真剣に考えるべきではないでしょうか.

 他方,反対に,国家安全保障における軍拡を議論する際に,この言葉を用いることには注意すべきと考えます.
 その理由は,ここでの「平和ボケ」は,軍拡を反対する考えに対し,反論をさせずに,これを認めさせるのためのマジックワードであり,これを前提にした場合,具体的な議論が成り立たないからです.

 もともと,「平和ボケ」とは,平和に慣れすぎて現実を見失う状態を指す言葉で,戦争や安全保障に関する自国を取り巻く現状や世界情勢を正確に把握しようとせず,争いごとなく平和な日常が続くという幻想を抱くことを指すものと理解されています.
 そのため,戦争に対する備えとしてどの程度のものが必要かという議論する際,自衛隊の装備等の拡大を支持する政治家が,防衛の重要性に考えが及ばないことを指して「平和ボケ」と用いる場合があります.

 しかし,ここでの「平和ボケ」は,国家安全保障に対して,どれほどの現状認識や危機感を有していたとしても,その装備を増強する方向に賛同しない限りは,常に「平和ボケ」とみなされることが前提となっています.どのような認識を有していれば「平和ボケ」ではないのかは明らかではありません.具体的な基準のようなものが存在して用いられているものではありません.

 そのため,この文脈における「平和ボケ」から抜け出すということは,軍拡を際限なく許容することを意味し,この言葉は,軍拡を進めるための,反論を許さないためのマジックワードとして用いられ,建設的な議論をさせないためにあえて使われていると言っても言い過ぎでないと思います.そして,その場合の軍拡も,これと比例してどこまで行っても十分なものと判断されることがなくなるはずです.

 ですから,国家安全保障を語る上で,この「平和ボケ」という言葉は用いるべきではないというのが私の意見です.

 そして,冒頭で述べましたように,崩壊した建物やそれらのガレキが一面に広がる映像からは,電気・水道・ガスというライフラインが断絶し,雨風を凌ぐ屋根や壁がなく,公衆衛生すら確保されないということが想像されます.
 このような,平和が損なわれた場面を目の当たりにしながら,そのことの意味に考えが及ばないことを指して,「平和ボケ」という言葉を用いることにより,その想像力の欠如や無関心が戒められるべきではないかと思います.
 「平和ボケ」であることの基準として,普通の生活が失われた状態を認識しながらそのことに関心を払わない状態を用いることは,その基準として相当と思われます.

 高校生の頃に,冒頭のような発言に及んだ私でも,年齢を重ねたことで,昨今のウクライナやガザの状況が具合的な映像で流れてくる中で,その悲惨さをある程度の具体性を持って認識することができるようになるに至っています.
 特に,近年の震災で避難生活を送らなければならない方々の存在を間近に感じることができる我が国であれば,尚更,そのような想像力は働きやすいのではないでしょうか.

 自分の置かれた平和な環境(水道・ガス・電気があり,雨風を凌ぐ屋根も壁もあることが普通であること)に慣れ,そうでない状況に置かれることがいかに過酷なものであるのかについて,想像力に欠ける,このような状態をさして,まさに「平和ボケ」というべきです.

 そして,その映像の向こうにある現実の世界について無関心となることなく,仮にそのようなことがあれば,これを戒める意味で「平和ボケ」という言葉が使われるべきであるように思います.
 今まさに,「平和ボケ」という言葉により,改めて平和の意味を考えるべき,そんな時代ではないでしょうか.

検事と弁護士の違い

 検事と弁護士の違いは何か.
 それは,「自分も被疑者・被告人になる(なった)かもしれない」という考えを有しているかどうかだと思います.
 もちろん,弁護士全員がそう考えているとは思いませんし,検事の中にもそんな考えを有する方もいるかもしれません.また,裁判官についても,検事と同様のことが当てはまるだろうと思われる方が多く存在するはずです.
 日頃の業務の中で,検事や裁判官の言動に触れるにつき,このようなことを強く感じることが多くありますが,「自分が反対の立場だったら」ということを想像し,他者に対する態度に配慮することって大事ではないでしょうか.

 新聞の報道で,岸田(元)首相襲撃事件の被疑者に対し,「引きこもり」「替えがきく」などと述べて取り調べ中に検事が侮辱したことが記事として掲載されまし.これ以前には,被疑者に対して「ガキ」「嘘つきやすい体質」「検察なめんな」と怒鳴るなどした事例も報道されました.

 子供の頃,タイトルは忘れましたが,とある刑事ドラマの中で,刑事役の方のセリフに「疑うことが刑事の仕事ではない,信じることだ」というものがありましたが,あれは実務では嘘です.ドラマだけのことです.
 実際,弁護人となり被疑者に警察署で面会した際に,「警察は味方だと思っていたのに何を言っても信じてくれない」と困り果てた様子で,アクリル板越しに訴える方を何人も見てきました.

 そもそも,警察も検察も,被疑者・被告人を犯人にして有罪とすることで自らの評価が上がる職業です.「逮捕したところ犯人ではないと判断したので釈放します」「起訴しましたが弁護人の主張を踏まえると無罪と判断し訴えを取り下げます」では,彼らはなぜ逮捕したのか起訴したのか責任を問われかねません.
 だからどうするか?
 自白させて,罪を認めさせて,被疑者・被告人に責任を負わせ,警察,検察の対応に問題はなかったという事実を築きたいということを考えるようになるはずです(弁護人として,被疑者に対してこのような説明をすると,すごく納得してもらえることがよくあります.).

 そうすると,捜査においては,公正に事実関係を調べて判断するという考え方は後退し,責任を負わせる方向,疑う方向でしか取り調べが行われないことになります.
 このことは,被疑者・被告人が犯人であり有罪であるという先入観という以上に,犯人であり有罪でなければならないという確信犯的なものであり,その時の検事の対応は,被疑者・被告人の地位を当然のように下に見ることになるはずですし,検事の描くストーリーを否定されれば,そのような態度を不当・不誠実だと感じ,彼らを侮辱することについての問題性も感じないはずです.

 また,これと同様に,刑事裁判官の中には,被告人に対して,非常に丁寧に接する方もいますが,反対に,命令口調で訴訟指揮を行い「座りなさい」「聞いていなさい」という方もいます.日本における刑事裁判の有罪率の高さが大きく影響しているからですが,これも,被告人が有罪であるとの先入観ないし確信犯的な認識に基づくものだと思います.
 法廷に入廷する際に,手錠腰縄をつけられていることや,有罪の判決が言い渡される前から,証言台の前に立たされたままで手続きを進めることも当然と考え,このことについて疑問も感じないのは,そのような認識に基づくと思われます.

 しかし,仮に,被疑者・被告人が犯人であり有罪であるとしても,それは,その限りで不利益(刑罰)を科されるということしか許容されるべきことではないはずですし,これを理由に,検事から受ける侮辱的言辞が正当化されることはありません.
 犯人だから,有罪だから人としての尊厳を侵害されても文句は言えないということにはならないはずです.法廷での公判手続きは,被告人を辱めるための手続きではないはずです.
 そしてこのことは,仮に検事や裁判官が被疑者・被告人となった時にも,同様に,人としての尊厳を脅かすような取調べや裁判手続きが行われてはならないことを意味するはずです.つまり,誰が被疑者・被告人になったとしても,人としての尊厳を有するものとして扱われることが保障されなければならないということです.

 自動車を運転する方,あるいはしたことのある方の多くは「無事故無違反」という言葉を口にする,あるいは聞いたことがあるかと思いますが,実際は,「検挙されたことがない」というだけで,法違反をしていないとは言い切れないはずです.
 そのような意味だけでなく,私自身のこれまでの人生を振り返ってみても,もしかすると逮捕されたかもしれない,あるいは,そのようなことを行なったかもしれないということは数え切れないほどあります.
 自分がこれまで逮捕されることなく,刑事裁判の被告人として証言台に立つことなく人生を生きてこれたことは「運が良かった」というのがいちばんの理由だと思っています.品方公正な生き方をしてきたからではありません.また,この先の人生ではどうなるかはわかりません.

 そしてこのことは,検事にも裁判官にも当てはまるはずです.
 そうであれば,目の前の被疑者・被告人を見て,自分もそうなるかもしれないということを少しでも想像することができれば,彼らに対し,侮辱的な言葉をかけ,あるいは有罪を前提に命令口調で訴訟指揮を行い辱めを受けさせるということのないように,相当な配慮を払うことができるはずです.

 「自分が反対の立場だったら」ということを想像し,他者に対する対応や態度に配慮することって,やっぱり大事ではないでしょうか.自分がその立場になって気づいてからでは遅いです(まして,法律上,そのような取り調べが認められているとは到底解されません.).
 特に,検察に対してはそう思います.

マイナンバーカードの申請手続

 保険証が廃止されるということで,ここまでマイナンバーカードを作らずにいた私ですが,とうとう,申請をしてしまいました.
 しかし,便利さのあまり,スマートフォンから申請したことについては反省というか後悔し,早計であったと思っています.その理由は,私のメールアドレスが行政に知られてしまった点にあります.

 マイナンバーカードについて,とある方は,「作ったところでメリットもないし何か優遇されるわけでもないし」と言って,作るのを渋る方がいました.
 しかし,行政の効率化については,私自身が公務員であったこともあり,それ自体は認められるべきことで,自己への優遇があるかどうかで行動を決定するというのは利己的に過ぎるかと思います.

 私がこれまでマイナンバーカードを作らなかったのは,自らに対するメリットの有無ではなく,自己の情報が一元的に管理されるということに対する危惧感というか嫌悪感からでした.
 テレビではワイドショーが,週刊誌やネットではゴシップ記事が,芸能人に限らず,何かしら他人のプライバシーをネタにして視聴率,視聴者数を稼ぐことが当然として行われています.おそらく,人に備わった他人に対する興味関心という本能が存在するからなのだと思います.私自身もそのこと自体は否定できません.

 ところが,このようなことは,芸能人のプライバシーなど,娯楽ともいえるような場面だけで認められるかというとそうではなく,時の権力者が,自らを批判する言動に対し,そのことを不快に感じた時は,どこの誰の発言であるか,どのような者であるのか,その発言だけでなく,その発言者の思想・信条や身上関係にも関心が向けられるはずです(私の公務員としての経験上,そのように感じる場面というのは,比較的多く目にしてきたと感じています.).
 これが,単に,一般市民が芸能人に対して抱くような関心であればともかく,そうではなく,権力者がこれを行うことは,国民に対して,政治的な発言等を萎縮させることに繋がりません.

 実際,岐阜県警の大垣署では,発電所の建設とは全く関係を有さない方の情報が,活動家だからなどという理由だけで収集され保管され,更には第三者に提供されていたという事実が明らかとなっています.権力者により,これと同じことが行われないはずがないというのが私の認識です.政治家や官僚も同様です.

 そうすると,マイナンバーカードを作ったところで,それまでの人生と何ら変わらない毎日を過ごせていたとしても,一度,権力者の反感を買うような言動に及ぶやいない,身分上のことだけでなく,健康保険の被保険者としての情報を介して,病歴などについても紐づるしきで手繰り寄せることができることになる(だろう)このマイナンバーカードという制度は,私にとって,鬱陶しいだけのものでしかありません.
 そのため,これまで,マイナンバーカードを作らなかったのはこのような理由からでした.

 そうでありながら,行政の効率化を否定する気はありませんし,病院にかからずに生活することもできないため,やむなく,申請するに至ってしまいました.
 しかし,申請するにあたり,スマートフォンから自己のメールアドレスを入力したため,行政が保有する私の個人情報の一つに,このメールアドレスが加わったことを考えた時,場合によっては(憲法21条はありますが)検閲の対象にもなりかねないと思わざるを得ません.

 そのため,便利さに負け,安易にスマートフォンから作成を申請してしまったことが悔やまれます.
 マイナンバーカードは作ってしまいましたが,今後も,必要以上な情報を行政(権力者)に渡さないよう,気をつけたいと思っている今日この頃です.

百田氏の発言に思うこと

 日本保守党の百田氏の発言が新聞等に取り上げられています.
 これについて,ちょっとだけ考えたことを書いてみます.
 なお,百田氏の発言はYouTubeの番組に出演した際のもので,少子化対策について「SFとして」発言したとの釈明とともに,不快に思われた方に謝罪しますとX(旧ツイッター)に投稿したようです.

 発言だけを取り上げると次のようなものだったようです.

 「女性は18歳から大学に行かさない」
 「25歳を超えて独身の場合は,生涯結婚できない法律にするとかね」

 これは,「子どもがいることをイコール幸せになる,という社会の価値観をどう取り戻すのか」という別の方の発言を受けてなされたもののようです.また,「子どもを産むには時間制限がある,と子どもたちに教えるべきだ」との発言に合わせて

 「30超えたら子宮を摘出する,とか」

 とも発言したようです.

 まず,そもそも,旧優生保護法により生殖能力を国に奪われた方々の裁判で,国は敗訴し,同法は,制定当初から違憲であったと最高裁が判断しました.
 そうだとすれば,仮にSFだとしても,百田氏は,政治家として,最高裁判決の意味を理解しておらず,実務的な能力の面で問題があるのではないかと思われます.

 また,これを聞いた女性が,子どもを出産して親になろうと思うかというと,逆効果のように思います.
 生殖行為(性交渉)だけ行い,あるいは養育費を支払わないなど,子どもに対して責任を持たない男性は多数存在することからすれば,男性に対する制約もセットで挙げるぐらいの配慮はなかったのかという点でも疑問です.
 私は,特にフェミニストを自称するつもりはありませんが,フェアではない発想は嫌いです.

 そして,百田氏は,謝罪をしていますが「私の表現のドギツさは否めないものがありました.不快に思われた方には謝罪します」とのことですが,これは何を意味するのでしょうか.
 これは「不快」にさせたことは謝るけれども,発言の内容自体に問題はないという認識を明らかにしたものといえます.

 最後に,百田氏として,摘出された子宮はどうなると考えたのか?

 国が,これを生命維持装置内で保存するなどして,凍結保存した精子を用いてこれと受精させ,国家により人工的に子どもを生み出そうということまで意味しての発言なんでしょうか.少子化対策ということで,そこまでの発想があったのであれば,SFという釈明も理解できなくもないですが,どうなんでしょうか.
 発言からすれば,出産をしてもしなくとも,女性が30歳を過ぎれば摘出されてしまい妊娠出産ができなくなるという意味で,「時間制限」の比喩として述べただけということであれば,作家としてもがっかりな気がします.

「俺の女」?

 ずいぶん以前のことですが,アダルトビデオの中の女優さんと男優さんとの間で,次のようなやりとりがありました.

 女優「誰?」
 男優「オレの先輩.〇〇ちゃんのファンなんだって」
 女優「?」
 男優(先輩に対して)「好きにしていいですよ」
 女優「???」

 これは,女優さんと男優さんが性行為(と思われる行為)を終えた後に,突然その部屋に男性が入ってきた時のことです.
 女優さんが驚いて,ベッドのシーツで身を隠しながら男優さんに発した「誰?」という言葉以降のやり取りです.

 ここで,「好きにしていいですよ」というのは男優さんが先輩に発した言葉ですが,その意味としては,その女優さんを「好きにしていいですよ」というものでした.
 当然,女優さんとしては「???」となったわけですが,私としても同じように「???」となったものです.

 先日,元大阪地検の検事正であった弁護士が,在職中の部下に対する強制性交罪で逮捕起訴されました.
 新聞等の報道によれば,その元検事正は,犯行時に,その部下に対して
 「これでお前も俺の女だ」
と述べたとのことのようです.

 アダルトビデオの中では,性交渉(と思われる)行為が行われ,時には,レイプシーンかのようなものも存在しますが,それは演技だとしても,「好きにしていいですよ」という発言は,正直いただけないなと思いました.
 その女優さんが誰とどのようなことを行うか,ありていにいえば,その先輩と呼ばれる方と性交渉(と思われる行為)に及ぶかどうかは本人が決めること,本人しか決められないことのはずです.
 それを第三者がそのような発言に及び,その先輩と呼ばれる方が「そうなんだね」と誤解して何らかの行為に及ぶというのは,アダルトビデオの世界であっても,正直よくないと思ったものです.

 そして,現実の世界で,おそらく,性犯罪の嫌疑をかけられた被告人を訴追し,刑罰の執行を求めたことがある元検事が,こともあろうか,安易に「俺の女」という発想に至ることがあまりにもいただけないと思ったわけです.
 もちろん,犯罪(同意なく性交渉)に及ぶこと自体許されませんが,そのような発言を聞くにつれ,そもそも,そのようなことをやりかねない人だったんだなとの印象を強く有してしまいます.

 大阪地検で司法修習を受けた私としては当時,修習やクラブ活動(バスケット)を通じ,事務官さんと仲良くさせていただいたこともあり,この方と一緒に仕事をされてきた事務官の方々が,人権意識に欠けたハラスメントにより,非常に苦労されたのではないかと思ってしまいます.

 被害者が,1日も早く,平穏な生活を取り戻せることを願います.

 

登録から13年

 本日10月5日は,2011年の同日に弁護士登録をしてから13年が経過する日です.
 弁護士になって丸13年がたちました.
 まだまだ未熟な部分があるのは確かですが,あの頃よりは,能力を高め,技術も磨き,少しは「まし」な弁護士になったはずです.
 そして,私がそうなれたのは,とある事件が大きく影響しています.

 数年前に経験したとある刑事事件です.
 結果として,依頼者を救うことができず,依頼者に対して,何も勝ち取ってあげることができませんでしたが,その事件(その依頼者)は,反対に,私の能力と技術を飛躍的に高めてくれました.

 判決を聞いた後,自分の能力の低さと技術の拙さを呪うとともに,自分たちの主張が認められなかった悔しさと依頼者に対する申し訳なさで,依頼者とともに,あれほど涙を流したことは,後にも先にもその事件だけです.

 左耳のピアスは,この事件の後に,自分に対する戒めとして開けたものです.

 明日以降も,弁護士を続けているのか(そもそも私が生きているのかも)分かりませんが,もし,弁護士を続けているのであれば,今よりも少しは「まし」な弁護士になっているよう,日々能力を高め,技術を磨いていきたいと思います.

弁護士の助言の理由について

 兵庫県知事のパワハラ疑惑で,職員を懲戒処分にすることに問題がないと助言した弁護士の存在が報じられ,「弁護士って何者?」と思われた方がいると思います.
 このことについて少しだけ.

 おそらく,弁護士が,権力者に頼られる場面を想定すれば,専門家として意見を求められ,行われようとする処分等に法的問題がないかを判断し,場合によってはそれにストップをかけることすら期待されると考えるのが自然だと思います.
 兵庫県知事のニュースに出てくる弁護士の行動に疑問を持つ方がいれば,それは,このような認識を有しているからだろうと思います.

 しかし,弁護士といえども,現実的には,一定の結論を前提に,それを支持するような意見を求められる場合がないわけではありません.そして,弁護士も,依頼を受ける立場である以上,その依頼者の意向に真っ向から反する意見を出しにくいときがないわけではありません.
 さらに,弁護士も「人」である以上,そうすることが正義だと考える方もいないわけでもありません.

 兵庫県知事に助言した弁護士も,確実に,処分が違法となるとの判断をすれば止めたかもしれません(そのような場合であれば,処分を後押しすることはさすがに弁護過誤になると思われます.).
 しかし,今回は,おそらく,その意向に沿った意見を出すために,処分をしても違法ではないという判断をするための一応の検討を行い,その意向に沿った意見を出したのだと思います.

 ところで,弁護士だけでなく,社会全体において,似たようなこと(専門家等が権力者の意に沿った助言を行うこと,反対に,権力者がそうすることで手続上の問題がないものとして権力を振るうこと)が多数あります.
 例えば,政府(役所)が国会に提出する法律の改正案も,審議会での議論を経たとのお墨付きを得た上で国会に提出されますが,審議会が偏向的な意見を出さないとは限りません.実際は,事務局である役所の考えを強く反映することが多くあります.
 その他にも,こんなところでも・・・(この辺でやめておきます.).

 訴訟手続において,自己の権利をかけて闘争する場面であれば,弁護士が,代理人として,依頼者に有利となるような主張を行うことは良いとしても,やはり,私の感覚からすれば,それ以外の場面では容易にそのような態度を取ることはできません.
 仮にそれが訴訟手続であっても,依頼者の利益を考えれば,やはり,求められるは客観的に正しいと思えることを主張すべきだと考えますし,そうしなければ,どこかで論理的な破綻をきたすことになると考えています.

 「人」により構成される「社会」の中で,私のように考えることは甘い考えかもしれませんが,そんなこんなで50年近く生きてきました.
 あと何年生きるか分かりませんし,あと何年弁護士を続けるかもわかりませんが,主観的・偏向的な「正しさ」ではなく,客観的な「正しさ」を追求して生きていきたいと思っています.

「責任の重さ」を感じる時

 私の受ける依頼・仕事は,どのような内容であっても,責任の伴うことは間違いありません.しかし,特に「責任の重さ」を感じる時があります.
 つい最近,改めてそのように思ったことがあったため,その時のことを少しだけ.

 このテーマとは何も関係がないように思われるかもしれませんが,我が家には7匹の猫がいます.いずれも保護猫です.
 これまで,身近に存在が確認できた野良猫を保護し,そのうち,幸にして引き取り手が見つかったものは譲渡してきましたが,懐かなかったりして,譲渡が難しいと考えたものについては,我が家で引き取ってきました.

 その猫たちを見ると,「簡単に倒れられない」と思うわけです.

 たとえ私が倒れることがあっても,家族については,行政による保護や,生きていく上で何らかの援助を受けられることが期待できる場合が,多くはありませんが存在します.自分で生きていくだけの選択肢もある程度はあるはずです.

 しかし,避妊・去勢をされ,家の中での生活に慣れた猫たちは,新たな住まいに連れて行くことができるかどうかは分かりません.
 そうできない場合,譲渡先が見つかり,新たな飼い主のもとで生きていければ良いですが,それについても人間頼みです.
 もし,再び野良猫として生きていくとなれば,相当な困難が伴うことが容易に想像されます.そこには行政による保護も,誰かからの何らかの援助も期待できません.
 おそらく,飢えて死を待つということになるでしょう.

 ですから,簡単に倒れられないというわけです.

 先日,とある依頼者のもとにいき,事件の打ち合わせをしてきました.
 そこには,避妊手術を受け,そのことがわかるように耳をカットされた黒猫がいました.依頼者のお店の看板猫だそうです.
 私が黒猫を撫でていると,飼い主(依頼者)からは,看板猫で
 「食事と自由が保障されている」
 という説明がありました.
 また,打合せの際,黒猫が自由に外を出歩いていましたので,完全室内飼いではないことも分かりました.「自由」とはそういう意味だと理解しました.
 つまり,その黒猫は,依頼者のもとで,地域猫として保護され,地域猫として餌をもらっている身分だろうということです.我が家の猫たちと比べれば,享受しうる自由には,雲泥の差があります.

 ところで,その黒猫は,「食事と自由」は確かに保障されてはいますが,依頼者がそこでの事業を辞めてしまった時どうなるのか.今回受けた依頼(相談)内容からすれば,そのような選択肢もないわけではありませんでした.

 事件の詳細については申し上げませんが,依頼者は,とある競業する大手の業者に睨まれ,まさに事業を潰されようとしている状態にあります.その事業自体,確かに歴史は長いのですが,そこまでして維持しなければならない「宿命」と言いうるようなものがあるともいえませんので,辞めることも不可能ではありません.
 また,依頼者は,話の端々からすると,それなりのキャリアを有しているようで,事業を行う上での能力に申し分はなさそうです.辞めてしまえばある意味,シガラミから解放され,かえって楽になれるはずです.
 何より,子供がゴミを.材料の入っている袋の中に入れようとしたのを見るや,自分の手に持っていたスマホを放り出して,そのゴミをキャッチしたのを見た時は,「素晴らしい」と感心してしまいました(なお,スマホの画面はしっかりとヒビが入っています.).
 おそらく,私なんかと違って度胸もあり,新たな可能性を求めて新規に事業を立ち上げるなどすれば,自由な発想とキャリアを武器に,もっと活躍できるだろうと思ってしまいます.

 そのため,依頼者についてはいつまで事業を続けるか,あるいは別の場所に移り別の事業を行うという選択は自由にできるはずですし,そうしたとしても,何も支障があるようには思えません.
 その場合,おそらく看板猫も一緒に連れて行ってくれるはずではありますが,自由な黒猫が,そのことを理解して素直についてくるかは分かりません.
 ついてきたとしても,少なくとも,人間の都合で,これまで生きてきた環境が大きく変わり,それまでに享受していた自由を制約されることになるはずです.
 万が一,うまく連れて行くことができなかった場合,その黒猫には,「飢えるための自由」しか残されないことになるかもしれません(飼い主が連れて行ってくれないと思ってはいません.猫って,そんな生き物なんです.そこは誤解しないようにお願いします.).

 そんなわけで,依頼者の事業が脅かされることなく続けられるようにすることも大事なんですが,そこには,黒猫の「食事と自由」もかかっていると考えると,改めて「責任の重さ」を感じずにはいられなかったところです.

「そんなことで?」と思われるかもしれませんが,そんなものです.

 今後,今回の事件がうまく解決すれば,おそらく,依頼者の事業は無事に継続できることになるでしょうし,それと合わせて,時代錯誤のしがらみも消え,更なる発展も期待できると思っています.
 その時,依頼者に生じた困難と,依頼者がそれを乗り越えたことについて,メディアが大々的に報じることはないでしょうし,SNSに投稿したところで何人かはそれを目にするとは思いますが,良い意味で炎上する(バズる)こともないでしょう.
 しかし,今回の事件がうまく解決することにより,その黒猫は,いつものように店の前で我々を出迎えてくれるはずですし,そのことが,今回の事件の結末を何よりも雄弁に物語ってくれるはずです.

 ですから,黒猫の「食事と自由」を守らないといけないと思うわけで,そうすると,「責任の重さ」を感じずにはいられないということです.

立候補者の掲示板と自由な国

 昔,どなたかの言葉で「都知事選はお祭りだ」と述べていたものがあったように記憶しています.以下のとおり,この言葉は,民主主義のもとで,人々が政治的表現の自由を妨げられないことの重要性を意味していたのだと,今更ながらに思い出し,理解するに至りました.

 少し時間が経ちましたが,今年の東京都知事選で,候補者の掲示板に,ほぼ全裸の女性の写真が掲載されたことや,候補者の動画に誘引するポスターの掲示などが問題となりました.
 このようなことを聞けば,掲示する写真の内容について規制すべきだという考えに至りそうです.こんな私も,最初は,掲示板の使用方法に疑問を感じはしましたし,規制もやむを得ないかとも考えました.偶々東京に出張があり,実物も拝見する機会もありました.
 しかし,香港の警察からの弾圧を恐れ日本に亡命した方が,この掲示板を見た時に発した言葉に触れ,規制すべきではないとの考えに至りました.

 その言葉とは,「日本は自由な国だ」というものです.

 まず,亡命された方ではなく,これについて,内容を規制すべきではないという学者の意見から紹介します.
 8月8日の朝刊に,憲法(ここでは,政治的表現の自由)と民主制の観点から掲載されました.その意見は,内容を規制するのではなく別の方法を取るべきだというものでした.
 具体的には,どのようなことであっても,政治的な言論は保障されるべきであり,その内容を理由に法的な責任は問われないものとし,その代わり,候補者としての一定の資格を設ければ良い,そして,主張に対する判断は当落で決せられれば良いというものでした.
 その理由は,社会にある問題を提起し,政治的な解決の必要性を訴えようとすれば,他人にとって不快とも言える表現を用いなければならない場合もあるからだということです.
 例えば,戦争や紛争というものに関する主張を行おうとすれば,その悲惨さを伝えるために,被害の状況を伝えるべく写真を掲示することも許容されるべきだということです.動物虐待を問題にしようと思えば,虐待された動物の写真を持って訴えを行うことも当然です.さらに,国が行ってきた強制不妊手術やハンセン病者の隔離などは,まさに,そのような類の表現となるでしょうし,しかし,それらが許容されるべきだと言われれば納得できると思われます.

 そのため,性風俗産業で働く方の社会的な保護の在り方などを訴えようとすれば,冒頭のほぼ全裸の女性の写真を掲載するようなこともあり得るかと思いますが,それが政治的意見である限りは許容されるべきです.
 仮にそれが泡沫候補者と呼ばれるような方々によるものであっても,多くの国民が関心を示さない,気づくことのない社会の闇を照らし,その問題を社会に訴え政治により解決したいと思い行動することは,民主制において崇高な行為であるとともに,表現の自由として最大限保障されなければなりません.大多数の方から見れば「こんなことを」と思われるようなことほど,保障されるべきとも言えます.

 そして,そのようなことが許容されることこそが,民主制における自由が保障されることの表れだと思えます.香港から亡命された方の言葉には非常に重いものを感じるとともに,それとは別に,昔聞いた「都知事選はお祭りだ」との言葉を思い出し,その言葉に愛おしさすら感じました.

 今後,選挙で候補者の掲示板を見るたびに,私の住むこの国が,自由な国であることを確認できる,そんな日本であり続けることを願って止みません.

マニュアル車を増やして欲しい

 タイトルについては自分の好みによるものですが,単に,マニュアルの車種を増やして欲しいというだけでなく,そうすることが社会的にも有用ではないかとも思っています.

 とある大学の研究室の調査では,オートマ車とマニュアル車の事故率を比較すると,マニュアル車の方が有意といえるほどに割合が低かったとのことです.社会的に有用ではないかとはこのような意味においてです.
 事故率が低い理由については推測するしかありませんが,操作がオートマ車に比較して複雑であるため,慎重に運転するからではないかという意見があるようです.

 他方で,登録車の約98%がオートマ車だそうです.
 そのため,車の運転が好きな方,あるいはトラック等の職業として運転する方など,運転技術の優れた方が残り2%のマニュアル車に乗るため,その分,事故率が下がっているのではないかとの意見もあるようです.そのため,自動車の動力伝達装置の相違に由来して差が生じているとはいえないというご意見のようです.

 しかし,運転技術は,単に,クラッチとシフトレバーの操作が上手いかどうかというだけの問題ではなく,道路上の車両の状況についての認知能力等が大きいのではないかと思います.例えば,男性と女性とでは,空間認識能力が男性の方が高いため,自動車の車庫入れなどは,男性の方が女性よりも比較的得意だと聞いたことがあります.運転技術は,単に,クラッチ等の操作だけの問題ではないはずです.

 また,左手でスマホを持ったまま運転をしている方をよく見かけますが(違法です),左手でシフトレバーを操作することから解放されたことが大きな原因ではないでしょうか.

 この「ひとりごと」の冒頭にご紹介した鷺沢さんも,オートマではなくマニュアル車を好んで運転された方のお一人です.
 私の場合,最初に取得した免許が二輪車で,マニュアル車だったことも影響しているものと思いますが,意図しないタイミングでエンジンブレーキがかかったり,加速したいと思った時にギアが上げられて思ったように加速できないことにストレスを感じます.

 車にご関心のない方からすればどうでも良いことだと思いますが,マニュアル車の普及拡大と併せて,各メーカーのラインナップが増えることを期待しております.