「自由」について

 「自由」というと,英語では,「free」と「liberty」がありますが,ここでは,私にとっての自由とその意味について少しだけ.

 この職業についてからではなく,ある程度の年齢に達してから以降,他の方々よりも,自分が「自由」や「平等」というものにとても敏感であることに気づきました.もちろん,この職業についたことで,そう感じる理由などを論理的に理解することができるようになったようにも思います.
 先日,これに関することで,役所に勤めていた時のことをふと思い出しました.

 霞が関に通勤するようになった2年目のことです.
 同じ島(机を前後向かい合わせて一つの塊になるように配置されもの)で私の向かいに座っていた方(別の係の方で,以下「Aさん」といいます.)から,「今後,昼休みの電話当番を決めましょう」という提案がなされました.
 この時,私はとても怒り,「そちらの係だけでやってください」と言い,これに応じることはありませんでした.

 そのように怒った理由は,「自由」が制約されるからです.

 昼休みである以上その時間を自由に利用して良いのですが,国民に対する全体の奉仕者たる公務員という立場からすれば,Aさんの提案はもっともなものとも思えます.
 ただ,それまでの経緯等が関係します.

 Aさんは,私が霞が関に通勤するようになった1年目から,同じ島で働くようになりました.彼の場合は,内部的な移動でその席に来ることになったものです.
 霞が関は不思議なところで,帰宅する時刻は極めて遅く,誰も定時に帰るようなことはしませんでした(今でもそうかは知りません).
 にもかかわらず,昼休みになると,その職員のほぼ全員が必ず,一斉に昼食をとりに庁舎外に出る又は庁舎内の食堂に行く,あるいは,地下のコンビニに昼食を買いに行くという行動をとります.当時の私にとっても,非常に不思議な光景でした.

 Aさんも同様で,その時は,Kさん・Sさんという方々が,必ずAさんを誘って食事に出掛けていました.そのため,昼休みになると,島には弁当を持参していた私だけが1人残った状態で,食事,あるいは食事後に歯磨きをしている最中でも,電話が鳴った時は無視するわけにもいかないので,電話に出ていました.
 この時の私の対応は,義務としてではなく,公務員という立場において,そうしなくとも誰からも咎められない状況であったにもかかわらず,いわゆる善意で行っていたものです.

 ところが,私が霞が関に来て2年目,年度末の人事異動によりKさんとSさんが他庁に移動となりこの職場を去ってしまいました.そのため,Aさんが昼食に誘われることがなくなり,Aさんが昼休みに離席することもなくなりました.Aさんは,毎日,庁舎に出入りする業者のお弁当を注文するようになり,KさんとSさんの代わりに異動してきた方々も,同じように弁当を注文していました.
 その結果,前年と異なり,私の座っている島には,Aさんと私以外の係員も含め,常時5人ほどが自席で昼休みを過ごすようになりました.

 そこで出されたのが,上記の提案でした.

 Aさんからすれば,昼休みに庁舎外に出かけることのない私であれば,当然のことのように提案を受け入れると思ったのかもしれません.彼にとっても,今後昼休みに庁舎外に出ることがないため,そのような義務を課されることで生じる不利益が大きくはないという考えだったのかもしれません.

 しかし,私からすれば,今まで,昼休みである以上その時間を自由に利用し,電話に出るかどうかも自由であることを前提に,「(食事などを中断して)電話に出る」という意思決定をしていたものです.1年間,善意で昼休み中に電話対応をしていただけです.
 ところが,Aさんの提案に従うこととなれば,それ以後,担当となる日については,それが義務になり,昼休みの自由な時間が制約されるということを意味します.
 自席で昼食を取ること,その際に鳴った電話に出ることすらも「自由」に行っていた私にとって,これを「義務」とされてしまうことにひどく抵抗感を覚えました.

 上記のような経緯からすれば,Aさんが,食事に誘ってくれる同僚がいなくなったことを契機にそのような提案をしてきたというその動機があったことは明白です.そのことに対して,私が嫌悪感を抱いたことも事実です.
 しかし,そのような嫌悪感だけで,私がこれを拒否したものではありませんし,このことが,そうしたことの本質的な理由ではありません.

 私にとって「自由」であることが重要であり,その自由を前提に,どのように物事を判断し,どのような行動を取るかが,自分の生き方において重要だと考えています.
 そのため,自分がそのような環境にいることが,自分の人生において尊いことであり,価値があることだと思っています.

 おそらく,私が1年目に霞が関に来たとき,最初からそのような電話当番という制度があり,それが割り当てられるのであれば,当然のこととしてこれに従ったものと思います.あるいは,Aさんがそのような提案をしなくとも,2年目以降も,善意で電話を取り続けたのだろうとも思います.

 しかし,その時感じた抵抗感,そしてAさんの提案を拒否したことは,自分にとってのこのような考え方に根付いているものだと思います.
 あまり,ご理解や共感を得られないことかもしれませんが,私の考える「自由」がどのようなものかといえば,以上のことが,その一部を示してくれるものです.

 私のことを,「面倒臭いやつ」だと思われるかもしれませんが,ご関心がある方は,まずは,ご相談の予約からお願いします.

オリンピック

 私だけでしょうか,「もうやめたらいい」と思っています.

 私自身,「オリンピック」という制度を疑うことなく,それが正しいものとして教えられて育ってきましたし,テレビ中継を見て一喜一憂したこともありますが,今一度立ち止まって,そのような議論をすべきではないでしょうか?
 そんな時期にきているように思いませんか?

 各国のメダルの数が集計されたものを新聞の紙面で見ましたが,経済力の大きさとほぼ比例する結果となっていました.
 そのため,種目での勝ち負けを競うのではなく,そのために,どれだけの経済的な投資をできたか,間接的には,経済力の差を見せつけるためにオリンピックが行なわれているのではないかとすら錯覚してしまいます.

 東京オリンピックで談合があり,オリンピックが金儲けの道具とされているということ以上に,もっと根深い何かがこの制度を支えているように思えてなりません.

 そのため,メダルと一緒に満面の笑みを見せるアスリートの顔を見ると,昔のように手放しでそれを祝福する気持ちにはなれず,かなり複雑な感情を抱いてしまいます.

無関心

 「みんなが正しいと言いはじめたら、一回はそれを疑ってみること。一度だけでいいから左を見てみること。(永田和宏)」

 これは,本日の朝日新聞の「折々のことば」に取り上げられたものです。
 自分以外の大勢の意見が一致した時,それに対して何の疑問も持たないことは,そのことを「正しい」と信じてそれに賛成したというよりも,「無関心」なんだろうと思います。

 上の言葉は「反対せよ」とは言っていません。
 「疑ってみること」が必要だと言っているものです。

 賛成するとしても,本当にそれで良いのか,問題はないのかを自分なりに考え,そして,「正しい」と信じることができるのであれば,「賛成」で良いと思います.
 しかし,そのプロセスを抜きに,みんなの「正しさ」に賛成することは,本当の意味で賛成しているのではなく,考えること,疑うことを放棄した「無関心」でしかありません.

 そしてそのことは,「みんなが正しい」という意見を通すことにより痛みを押し付けられる人(不利益に扱われる人)がいる場合,その「痛み」に対して無関心であることを意味します.

 ここ数日,そのようなことを考えさせられる相談が寄せられたこともあり,上記の新聞で取り上げられた言葉が,とても大事なものと思えたところです.

慰謝料もらえますか?

 もらえないと思った方が良いと思います(絶対ではありませんが).

 以前からそうだったのかもしれませんが,広告を出してから「お金になるなら相談に行きたいんですけど」という電話での問合せが多くなったような気がします.
 しかし,ご相談のほとんど(全部と言ってもいいです)は,「無理です」とお答えして電話だけで終わっています.

 困ったことがあってご相談をくださるとき,その解決として慰謝料の支払いを求めるという手段が選択肢として出てくるのであれば良いのですが,先に「慰謝料」という言葉が出てくるのは,かなり違和感があります.

 他人のせいで手間がかかったとか,不快に感じたりすることは,社会生活を送る上で避けることはできません.そのため,多くの場合,お互い様ということで許容しなければならない場合が多くあります.
 特に,経済的な取引(私人間でもそうです)において,思惑通りに進まないことはよくありますが,元本を回収した以上に,手間がかかった,不快だったという理由にそれ以上の損害の賠償を求めうることはほぼないと思って良いと思います.
 もしそうでないとすれば,あらゆることを手間に感じ,あるいは不快に感じやすい方にとっては,社会生活というのは内出の小槌になってしまいますし,破産をして人生の再出発をしようという方は,慰謝料を抱えてのリスタートになってしまい,破産という制度趣旨に反することにもなります.

 お困りごとのある方は,相談の予約のためにご連絡ください.
 そうでなく,「慰謝料だけ」をお考えの方,別の先生をお探しください.

 なお,今朝,電話をくださったに方は,相手から,すでに元本の他に30万円の迷惑料をもらったということですが,さらに迷惑を被っているという理由で「お金になれば相談に行きます」とご相談されましたが,その際も,上記と同様に「無理です」とお答えしました.
 しかし,後々考えてみれば,更なる慰謝料がとれるかどうかよりも,すでに受領した迷惑料を理由に,恐喝罪で立件(逮捕・起訴)されないことを心配された方が良いかもしれないと思い至りました.
 電話では,このことをお伝えすることができませんでしたので,この場を借りて,お伝えいたします.

「○○に強い弁護士」?

 あまり本意ではないのですが,今年から,ネット上に広告を出し,顔写真も掲載するようになりました.広告会社と一緒にページを作成するのですが,その際に出されるリクエストなどに応えた結果があのようなページになっています.

 ところで,弁護士を探そうとして検索すると,「〇〇に強い弁護士」というサムネイルがこれでもかと言わんばかりに並びますが,これって,信用して良いのでしょうか?

 これまで,国選弁護人として被疑者に接見するため,警察署に行った際,被疑者から,「〇〇に強い弁護士に依頼するから結構です.」と言われたことが数回あります.しかし,どれも,直接の知り合いの弁護士ということではなく,ネットで検索したら出てきたため,そのように言っているようでした.

 しかし,「強い」という表記を文字通りのに捉えるのはどうかと思います.

 なぜなら,自分で自分のことを「強い」とアピールする時に,本当にそうなのかは基本的には疑ってかかるべきで,弁護士であっても同様だからです.
 例えば「年利120%確実」など投資詐欺の宣伝を見て「確実なのか!よし,1000万円預けよう」とはならないはずです.これと同じです.

 もっとも,弁護士の場合は,「強い」などという広告は評価でしかなく,本当に強いかどうかは程度問題でしかない場合が多くあります.
 そのため,このような「〇〇に強い」という広告も,虚をついて集客し,騙して費用を支払わせようとしているわけではなく,「〇〇の分野のご依頼でしたら,世間一般の弁護士並にはできます」という程度で理解するのが良いと思われます.

 あるいは,善意に解釈しようとすれば,「〇〇に強い」との広告は,その弁護士自身が力を入れている分野であるため,そうではない方よりも良い仕事をするだけの自信の表れの一つとも解釈することができるかもしれません.

 それでは,私の広告はどうでしょうか?

 サイトには,限られた分野についてですが,「注力分野」「強み」などとかかれておりますので,「他の弁護士の広告と一緒じゃないか」と言われればそのとおりです.申し開きはできません.冒頭の「本意ではない」というのは,顔写真を出したくないという以外に,そのような意味もあります.
 そのため,私のことを直接にはご存知でない方は,上と同じように,この分野については「良い仕事をするだけの自信の表れ」だろうとご理いただければ幸いです.

 ただ,事例については,上手くいった事例だけでなく,失敗したり苦労したものもあえて掲載しております.この点は,他の弁護士の広告とは違うはずです.
 自分のことを良く見せようとすれば普通はしないはずですが,そのようにした理由はなんでしょうか?
 大した理由ではありませんが,関心がある方は,直接お会いした際にでもお尋ねください.

子どもを映した動画を見る理由

 最近,身近な人が,動画サイトのどこの誰とも知らない子どもが食事をする様子を撮影した動画を見ながら,「可愛い」などといいながら,楽しそうに視聴していました.

 ところで,ずいぶん以前のことになるかと思いますが,他人の子どもや孫のホームビデオを見せられるのは迷惑だという考え方があったように思います.
 その子の親や祖父母であれば子供の成長やその過程を見て幸せを感じることはあるとしても,やはり,子どもといっても,他人のことですから,「大人」として「子ども」の健やかな成長を嬉しく思うことはあっても,それを超えてその様子を楽しむという感覚にはなれません.

 しかし,最近はその辺の感覚が以前とは変わったのか,それとも,全くの他人の子どもだから素直に可愛さを楽しめるのか,その辺の心境がよく理解できません.
 もちろん,自宅にお邪魔した際に,ホームビデオを一方的に見せられるという場合とは違い,数多くある動画の中から,自分で選ぶという過程が含まれるため,異なってくるのか.

 こんなことを書くと「感動のない人だ」とか「心が荒んでいる」とかいわれるかもしれませんが,いずれにしても,どのような心理的な力学が働いてのことか,ご存知の方は教えて欲しいなと思ったところです.

この国(世界)はリアルAV?

 冒頭のタイトルからは「?」となるかもしれないが,少子化についてです。

 結論としては,政治家の半分を女性(生物学的な意味です)にしないと,社会保障等についてどのような制度設計をしたとしても,少子化対策は功をそうしないと思います。

 中学生の頃,社会科の先生がこんな問題を出しました。
「ボートに男女のカップルが乗っていたところ,ボートが沈んで2人と死んでしまいました。その時に池で見つかった二人の亡骸は,どちらが男性でどちらが女性だったでしょうか?」
 正解は「死体(シタイ=したい!)」が男性で,「遺体(イタイ=痛い!)」が女性とのことです。
 男性は性交渉を「したい」けれど,女性は性交渉は「痛い」と感じるということにかけた問題だったようです。

 なお,話はそれますが,私は,性の問題を「下ネタ」とすることに強い違和感を有しています。
 下ネタと言っていいのは,ウンチやおしっこに関するものに限るべき表現ではないかと思います。
 例えば,故鳥山明さんの作品で「ドクタースランプアラレちゃん」という漫画がありましたが,主人公は,「うんち」が先端に刺さった棒を手に持って走ったり,棒の先でウンチをツンツンとするシーンが描かれていました。
 ウンチやおしっこについて下ネタというのは別に構いません。だって,あとは処分して綺麗にするだけだからです。ウンチそれ自体に意思や品格はありません。
 ですから,それを棒の先につけて遊ぶ場面というのはまさに下ネタをコミカルにして描いているだけだと理解できます。
 しかし,人間の「性」は,人間の体の一部のことであり,人としての機能を指す以上,人格そのものです。
 人間として生まれた以上,絶対に性との関わりを切り離すことはできないものです。それを棒でツンツンするようなことがあれば,それはまさに人格・人権への侵害ですし,犯罪にもなります。
 決して「下ネタ」という部類に含めて良いものではないはずです。

 前置きが長くなりましたが,少子化についてです。
 政治家はこぞって子供を産み育てやすいようにすることで,出生率が上がると期待をし,そのための政策を立案して制度を整えようとします。
 しかし,育児の経験もない,まして,自分で子供を出産することのない男性の政治家が「子供を産み育てやすいようにする」ということを具体的に想像することはできないはずです。そんな政治家がいくら政策を作ったところで,出産についての当事者たる女性からすれば,男性の発想に基づく押し付けにしかならないと感じるはずですし,実際にそれが良い制度かどうかの判断は当事者である女性にしかできないはずです。
 そして,そのように考えた時,これって,「AVと一緒ではないか?」と考えるに至ったものです。

 つまり,AV男優は,その作品の中のことではありますが,女性に対し
 「気持ちいいだろ」
といったことを言うことがありますが,実際にそのような行為により快楽が得られるかどうかは女性でなければわからなものです。
 「気持ちいいですか?」
 と尋ね,痛みを感じていないか,苦しくないかを女性本人に確かめながら行為に及んでいるのであればまだしも,女性にとって気持ちいい「はずだ」と断定することには,その男優がどれだけの経験を積んだとしても,越えられない(軽々しく断定してはいけない)一線があるはずです。
 どれだけ経験があっても,男(優)は,女性になったことはありませんし,なることもありません。自分の行為がどのように受け止められているのかをどれだけ真剣に考えたとしても,想像を超えることはありません。

 今の日本(あるいは世界)の少子化対策は,これと,同様の事態になっているのではないでしょうか。
 「これで産めるだろ」
 ではなく
 「これで産めますか?」
 でもなく,
 「これなら産めそうだ!」
 という政策に行き着くには,やはり,当事者たる女性が政治家となりリーダーシップをとらなければならないと思います。

 このことは,「女性ならではの感性」を頼るという意味ではありません。女性として,当事者としての実際の経験を踏まえて立案すべきだという意味です。
 実際に存在するのかどうかもわからない男性の都合で作り上げた「女性ならではの感性」ではなく,実社会において,不合理・理不尽な制度のもとで実際に経験した事実(男性では感じることのできないこと)に基づいて,そのような経験を政策に反映しなければ,
 「これなら産んでもいいかも」
とはならないのではないでしょうか。

 最後に,AVはまだいいです。なぜなら,演じている俳優さんたちは実際に自分の体を使っているのだとは思いますが,つまるところはフィクションだからです。
 しかし,この社会はリアルです。演技ではありません。

 今回は,少子化という観点ではありましたが,同様のことはたくさんあるはずです。
 政治家の皆さん,国民の皆さん,今一度,考えてみませんか?

整形・タトゥー・性器の切除

 新聞記事に女性器の切除を問題視する記事が載っていましたが,ここでは,自己決定権について触れたいと思います。
 自己決定権とは,自己の人格に関することは自分で決める権利です。当然ながら,他人がこれを勝手に決めてはなりません。
 そのため,外形的に同じ行為が行われる場合であっても,本人の体について,その本人の意思が欠けていれば自己決定権の侵害です。また,本人の意思があるように見えても,そのことを熟慮しえるだけの能力がない場合には,やはり,そのような状況に追いやった人たち(あるいは,教育をしなかった人たち)による自己決定権の侵害です。

 女性器の切除についてですが,これは,アフリカのいくいつかの国(ないし地方)で,子供(少女)が一定の年齢(その記事では9歳の少女の話が載っていました)になると,カミソリ等でその女性器の一部を切除するというものです。

 少女は,その後,1人の女性とみなされ,両親の介在する結婚を強要されます。
 両親としては,自分の娘を嫁がせる代わりに婚姻の品々をもらえることを当てにしてのことのようです。特に,そうするかどうかの決定権は父親が有し,母親も,自分が経験したことでもあり,そのことに疑問を持たないようです。

 アフリカのその地方の方々からすれば,そのような女性器の切除は当たり前のこととされていて,人権侵害などのいわれを受ける筋合いのことではないという考えるようです。そして,その理由として,欧米(?)で女性器の美容整形が行われることを挙げるそうです。
 しかし,それが理由になるのでしょうか?
 ならないはずです。そこには,少女本人の自己決定がないからです。

 整形や刺青(タトゥー)もそうですが,自分の体は自分のものです。他人がそれをどうするか決定する権利はありません。
 女性器の切除について,その少女本人が,自分の人生に関する決定を十分に行えるだけの成熟した大人として自分でそれを選択(自己決定)するのであればそれを止めることはできません。
 しかし,そのことを,当事者ではない両親が決めるという点で,美容整形の場合とは大きく異なります。その少女の体について,本人の意思ではなく,他人の意思により切除(処分)されることは,事件や事故等で生命の危機に瀕しているような場合以外に正当化されることはありません。
 いずれにしても,自己決定権の侵害です。

 これと同じように,整形を行うことやタトゥーを入れることは,その体を傷害ないし侵襲することです。一定の思考能力有する成熟した大人がそのように判断するのであれば(一定の民族等においてはそのような行為が文化的だと主張されることも含め)それを止めることはできないとしても,やはり,熟慮ができない未成年者において容易くそれを行うことを認めることはできません。

 これまで私が少年事件で接したことのある何人かの少年は,自分の意思で刺青を入れることを決めたものですが,その時に,その行為がどのような意味を有しそしてそれが不可逆的であることを十分に理解して行なったかというとそうではないはずです。

 例えば,2本ある足のうち,一本を切除すれば,障害年金を受給できるでしょう。
 しかし,その受給権の発生という利益のみを理由に,実際に自ら片足を切除する方はいないはずです。その際の苦痛であったり,片足を失った後の生活がどのようなものとなるかが目に見えてわかるからです。そして,不可逆な行為であり,当然ながらそれまでのような両足のあった人生を送れる状態に戻ることはできません。

 それと同様に,女性器を切除することも,整形することも,刺青を入れることも,それが何を意味するのか。一度行って仕舞えば,後戻りすることはできません。そうでありながら,自分の身体を傷害し侵襲してまで行うべきことなのか。
 そのことを熟慮しえるだけの能力等がないままでそれを判断させることは,自己決定権を侵害することと同じです。

 いずれにしても,美容整形(女性器を切除するという外形的には同じことが行われていること)を理由に,両親が少女の体についての決定をしていいことには,絶対になりません。

鉄と戦争

 機動戦士ガンダムの世界のように,宇宙に人が住み,さらには,スペースコロニーという巨大で,それ自体が回転することで遠心力による擬似的な重力を生み出し多くの人が住みうるだけの居住空間まで作れる,そんな世界はいつか訪れるのでしょうか?

 ずいぶん以前に,新聞で「実現できない」とコメントが載っていました。

 私自身,実際にガンダムのようなロボットがあれだけの激しい戦いを繰り広げうるだけの世界は訪れないと考える方です。
 その理由は,あれだけの衝撃に耐えうる(変形もしない)だけの強度を,現在ある金属では生み出せないと考えるからです。

 しかし,その新聞のコメントの理由は違っており,その理由は,「地球上にスペースコロニーを作るだけの鉄がない」ということでしたが,とても納得できました。

 実際,地球上の元素の中で,多いものは,順番に酸素,ケイ素,アルミ,鉄,カルシウムだそうです。地球と同規模とは言わないまでも,あれだけのスペースコロニーを作るだけの資源が確かにあるとは思えません。
 人類が採掘し資源として活用しているのは地球のほんの表面に存在するものに過ぎません。地球の奥深くまで採掘することができたとしても,流石にあれだけの量を確保することは困難と思われます。

 ウクライナとロシアとの間では,ドローンを活用した先の大戦とは異なった武器が多く使用されているようですが,やはり,鉄の砲弾に相当依拠したもののようです。
 戦争それ自体もそうですが,限られた資源が,そのような目的に使用されるという観点からも,早期停戦に至ることを祈りたいです。

保護猫

 昨日の夜,家族が慌てて家を出て行ったかと思ったところ,生後1週間ほどと思われる子猫1匹を抱いて帰ってきました。
 親猫とはぐれてしまったようで,向かいのアパートの階段の下で泣いていたということでした。他にもまだ子猫がいるかもしれませんが,1匹だけ保護しました。

 現在,我が家には,7匹の先住猫がいます。
 実は,以前住んでいたアパートで,猫を保護したことが見つかって追い出されたため,現在の住まいに転居してきました。
 この話をすると「あなた弁護士ですよね?」とほぼ言われます。

 転居後,特に保護猫活動をしようという気はなかったのですが,川を挟んだ向かいのマンションに複数の野良猫がいて,住民が餌付けするなどしていたため(与えるのはほとんど残飯で後片付けもしない酷い状態です),それを保護し,何匹かは譲渡しましたが,現在7匹と同居するに至っています。

 向いのマンションで野良猫を見ることも無くなったため,猫を保護することももうないだろうと思っていたところ,約1年半ぶりの保護猫活動をホームセンターにミルクを買いに行くことでスタートしました。

 当分の間は,2時間おきに温めたミルクをスポイドで与え,排尿を促して,暖かくした段ボール箱の中に寝かしつけるという生活が繰返し行われる予定です。

 猫を引き取りたいという方,是非,ご連絡ください。もちろん,猫と同居するに相応しい準備をしていただける方に限ります。