「俺の女」?

 ずいぶん以前のことですが,アダルトビデオの中の女優さんと男優さんとの間で,次のようなやりとりがありました.

 女優「誰?」
 男優「オレの先輩.〇〇ちゃんのファンなんだって」
 女優「?」
 男優(先輩に対して)「好きにしていいですよ」
 女優「???」

 これは,女優さんと男優さんが性行為(と思われる行為)を終えた後に,突然その部屋に男性が入ってきた時のことです.
 女優さんが驚いて,ベッドのシーツで身を隠しながら男優さんに発した「誰?」という言葉以降のやり取りです.

 ここで,「好きにしていいですよ」というのは男優さんが先輩に発した言葉ですが,その意味としては,その女優さんを「好きにしていいですよ」というものでした.
 当然,女優さんとしては「???」となったわけですが,私としても同じように「???」となったものです.

 先日,元大阪地検の検事正であった弁護士が,在職中の部下に対する強制性交罪で逮捕起訴されました.
 新聞等の報道によれば,その元検事正は,犯行時に,その部下に対して
 「これでお前も俺の女だ」
と述べたとのことのようです.

 アダルトビデオの中では,性交渉(と思われる)行為が行われ,時には,レイプシーンかのようなものも存在しますが,それは演技だとしても,「好きにしていいですよ」という発言は,正直いただけないなと思いました.
 その女優さんが誰とどのようなことを行うか,ありていにいえば,その先輩と呼ばれる方と性交渉(と思われる行為)に及ぶかどうかは本人が決めること,本人しか決められないことのはずです.
 それを第三者がそのような発言に及び,その先輩と呼ばれる方が「そうなんだね」と誤解して何らかの行為に及ぶというのは,アダルトビデオの世界であっても,正直よくないと思ったものです.

 そして,現実の世界で,おそらく,性犯罪の嫌疑をかけられた被告人を訴追し,刑罰の執行を求めたことがある元検事が,こともあろうか,安易に「俺の女」という発想に至ることがあまりにもいただけないと思ったわけです.
 もちろん,犯罪(同意なく性交渉)に及ぶこと自体許されませんが,そのような発言を聞くにつれ,そもそも,そのようなことをやりかねない人だったんだなとの印象を強く有してしまいます.

 大阪地検で司法修習を受けた私としては当時,修習やクラブ活動(バスケット)を通じ,事務官さんと仲良くさせていただいたこともあり,この方と一緒に仕事をされてきた事務官の方々が,人権意識に欠けたハラスメントにより,非常に苦労されたのではないかと思ってしまいます.

 被害者が,1日も早く,平穏な生活を取り戻せることを願います.

 

登録から13年

 本日10月5日は,2011年の同日に弁護士登録をしてから13年が経過する日です.
 弁護士になって丸13年がたちました.
 まだまだ未熟な部分があるのは確かですが,あの頃よりは,能力を高め,技術も磨き,少しは「まし」な弁護士になったはずです.
 そして,私がそうなれたのは,とある事件が大きく影響しています.

 数年前に経験したとある刑事事件です.
 結果として,依頼者を救うことができず,依頼者に対して,何も勝ち取ってあげることができませんでしたが,その事件(その依頼者)は,反対に,私の能力と技術を飛躍的に高めてくれました.

 判決を聞いた後,自分の能力の低さと技術の拙さを呪うとともに,自分たちの主張が認められなかった悔しさと依頼者に対する申し訳なさで,依頼者とともに,あれほど涙を流したことは,後にも先にもその事件だけです.

 左耳のピアスは,この事件の後に,自分に対する戒めとして開けたものです.

 明日以降も,弁護士を続けているのか(そもそも私が生きているのかも)分かりませんが,もし,弁護士を続けているのであれば,今よりも少しは「まし」な弁護士になっているよう,日々能力を高め,技術を磨いていきたいと思います.

弁護士の助言の理由について

 兵庫県知事のパワハラ疑惑で,職員を懲戒処分にすることに問題がないと助言した弁護士の存在が報じられ,「弁護士って何者?」と思われた方がいると思います.
 このことについて少しだけ.

 おそらく,弁護士が,権力者に頼られる場面を想定すれば,専門家として意見を求められ,行われようとする処分等に法的問題がないかを判断し,場合によってはそれにストップをかけることすら期待されると考えるのが自然だと思います.
 兵庫県知事のニュースに出てくる弁護士の行動に疑問を持つ方がいれば,それは,このような認識を有しているからだろうと思います.

 しかし,弁護士といえども,現実的には,一定の結論を前提に,それを支持するような意見を求められる場合がないわけではありません.そして,弁護士も,依頼を受ける立場である以上,その依頼者の意向に真っ向から反する意見を出しにくいときがないわけではありません.
 さらに,弁護士も「人」である以上,そうすることが正義だと考える方もいないわけでもありません.

 兵庫県知事に助言した弁護士も,確実に,処分が違法となるとの判断をすれば止めたかもしれません(そのような場合であれば,処分を後押しすることはさすがに弁護過誤になると思われます.).
 しかし,今回は,おそらく,その意向に沿った意見を出すために,処分をしても違法ではないという判断をするための一応の検討を行い,その意向に沿った意見を出したのだと思います.

 ところで,弁護士だけでなく,社会全体において,似たようなこと(専門家等が権力者の意に沿った助言を行うこと,反対に,権力者がそうすることで手続上の問題がないものとして権力を振るうこと)が多数あります.
 例えば,政府(役所)が国会に提出する法律の改正案も,審議会での議論を経たとのお墨付きを得た上で国会に提出されますが,審議会が偏向的な意見を出さないとは限りません.実際は,事務局である役所の考えを強く反映することが多くあります.
 その他にも,こんなところでも・・・(この辺でやめておきます.).

 訴訟手続において,自己の権利をかけて闘争する場面であれば,弁護士が,代理人として,依頼者に有利となるような主張を行うことは良いとしても,やはり,私の感覚からすれば,それ以外の場面では容易にそのような態度を取ることはできません.
 仮にそれが訴訟手続であっても,依頼者の利益を考えれば,やはり,求められるは客観的に正しいと思えることを主張すべきだと考えますし,そうしなければ,どこかで論理的な破綻をきたすことになると考えています.

 「人」により構成される「社会」の中で,私のように考えることは甘い考えかもしれませんが,そんなこんなで50年近く生きてきました.
 あと何年生きるか分かりませんし,あと何年弁護士を続けるかもわかりませんが,主観的・偏向的な「正しさ」ではなく,客観的な「正しさ」を追求して生きていきたいと思っています.

「責任の重さ」を感じる時

 私の受ける依頼・仕事は,どのような内容であっても,責任の伴うことは間違いありません.しかし,特に「責任の重さ」を感じる時があります.
 つい最近,改めてそのように思ったことがあったため,その時のことを少しだけ.

 このテーマとは何も関係がないように思われるかもしれませんが,我が家には7匹の猫がいます.いずれも保護猫です.
 これまで,身近に存在が確認できた野良猫を保護し,そのうち,幸にして引き取り手が見つかったものは譲渡してきましたが,懐かなかったりして,譲渡が難しいと考えたものについては,我が家で引き取ってきました.

 その猫たちを見ると,「簡単に倒れられない」と思うわけです.

 たとえ私が倒れることがあっても,家族については,行政による保護や,生きていく上で何らかの援助を受けられることが期待できる場合が,多くはありませんが存在します.自分で生きていくだけの選択肢もある程度はあるはずです.

 しかし,避妊・去勢をされ,家の中での生活に慣れた猫たちは,新たな住まいに連れて行くことができるかどうかは分かりません.
 そうできない場合,譲渡先が見つかり,新たな飼い主のもとで生きていければ良いですが,それについても人間頼みです.
 もし,再び野良猫として生きていくとなれば,相当な困難が伴うことが容易に想像されます.そこには行政による保護も,誰かからの何らかの援助も期待できません.
 おそらく,飢えて死を待つということになるでしょう.

 ですから,簡単に倒れられないというわけです.

 先日,とある依頼者のもとにいき,事件の打ち合わせをしてきました.
 そこには,避妊手術を受け,そのことがわかるように耳をカットされた黒猫がいました.依頼者のお店の看板猫だそうです.
 私が黒猫を撫でていると,飼い主(依頼者)からは,看板猫で
 「食事と自由が保障されている」
 という説明がありました.
 また,打合せの際,黒猫が自由に外を出歩いていましたので,完全室内飼いではないことも分かりました.「自由」とはそういう意味だと理解しました.
 つまり,その黒猫は,依頼者のもとで,地域猫として保護され,地域猫として餌をもらっている身分だろうということです.我が家の猫たちと比べれば,享受しうる自由には,雲泥の差があります.

 ところで,その黒猫は,「食事と自由」は確かに保障されてはいますが,依頼者がそこでの事業を辞めてしまった時どうなるのか.今回受けた依頼(相談)内容からすれば,そのような選択肢もないわけではありませんでした.

 事件の詳細については申し上げませんが,依頼者は,とある競業する大手の業者に睨まれ,まさに事業を潰されようとしている状態にあります.その事業自体,確かに歴史は長いのですが,そこまでして維持しなければならない「宿命」と言いうるようなものがあるともいえませんので,辞めることも不可能ではありません.
 また,依頼者は,話の端々からすると,それなりのキャリアを有しているようで,事業を行う上での能力に申し分はなさそうです.辞めてしまえばある意味,シガラミから解放され,かえって楽になれるはずです.
 何より,子供がゴミを.材料の入っている袋の中に入れようとしたのを見るや,自分の手に持っていたスマホを放り出して,そのゴミをキャッチしたのを見た時は,「素晴らしい」と感心してしまいました(なお,スマホの画面はしっかりとヒビが入っています.).
 おそらく,私なんかと違って度胸もあり,新たな可能性を求めて新規に事業を立ち上げるなどすれば,自由な発想とキャリアを武器に,もっと活躍できるだろうと思ってしまいます.

 そのため,依頼者についてはいつまで事業を続けるか,あるいは別の場所に移り別の事業を行うという選択は自由にできるはずですし,そうしたとしても,何も支障があるようには思えません.
 その場合,おそらく看板猫も一緒に連れて行ってくれるはずではありますが,自由な黒猫が,そのことを理解して素直についてくるかは分かりません.
 ついてきたとしても,少なくとも,人間の都合で,これまで生きてきた環境が大きく変わり,それまでに享受していた自由を制約されることになるはずです.
 万が一,うまく連れて行くことができなかった場合,その黒猫には,「飢えるための自由」しか残されないことになるかもしれません(飼い主が連れて行ってくれないと思ってはいません.猫って,そんな生き物なんです.そこは誤解しないようにお願いします.).

 そんなわけで,依頼者の事業が脅かされることなく続けられるようにすることも大事なんですが,そこには,黒猫の「食事と自由」もかかっていると考えると,改めて「責任の重さ」を感じずにはいられなかったところです.

「そんなことで?」と思われるかもしれませんが,そんなものです.

 今後,今回の事件がうまく解決すれば,おそらく,依頼者の事業は無事に継続できることになるでしょうし,それと合わせて,時代錯誤のしがらみも消え,更なる発展も期待できると思っています.
 その時,依頼者に生じた困難と,依頼者がそれを乗り越えたことについて,メディアが大々的に報じることはないでしょうし,SNSに投稿したところで何人かはそれを目にするとは思いますが,良い意味で炎上する(バズる)こともないでしょう.
 しかし,今回の事件がうまく解決することにより,その黒猫は,いつものように店の前で我々を出迎えてくれるはずですし,そのことが,今回の事件の結末を何よりも雄弁に物語ってくれるはずです.

 ですから,黒猫の「食事と自由」を守らないといけないと思うわけで,そうすると,「責任の重さ」を感じずにはいられないということです.

立候補者の掲示板と自由な国

 昔,どなたかの言葉で「都知事選はお祭りだ」と述べていたものがあったように記憶しています.以下のとおり,この言葉は,民主主義のもとで,人々が政治的表現の自由を妨げられないことの重要性を意味していたのだと,今更ながらに思い出し,理解するに至りました.

 少し時間が経ちましたが,今年の東京都知事選で,候補者の掲示板に,ほぼ全裸の女性の写真が掲載されたことや,候補者の動画に誘引するポスターの掲示などが問題となりました.
 このようなことを聞けば,掲示する写真の内容について規制すべきだという考えに至りそうです.こんな私も,最初は,掲示板の使用方法に疑問を感じはしましたし,規制もやむを得ないかとも考えました.偶々東京に出張があり,実物も拝見する機会もありました.
 しかし,香港の警察からの弾圧を恐れ日本に亡命した方が,この掲示板を見た時に発した言葉に触れ,規制すべきではないとの考えに至りました.

 その言葉とは,「日本は自由な国だ」というものです.

 まず,亡命された方ではなく,これについて,内容を規制すべきではないという学者の意見から紹介します.
 8月8日の朝刊に,憲法(ここでは,政治的表現の自由)と民主制の観点から掲載されました.その意見は,内容を規制するのではなく別の方法を取るべきだというものでした.
 具体的には,どのようなことであっても,政治的な言論は保障されるべきであり,その内容を理由に法的な責任は問われないものとし,その代わり,候補者としての一定の資格を設ければ良い,そして,主張に対する判断は当落で決せられれば良いというものでした.
 その理由は,社会にある問題を提起し,政治的な解決の必要性を訴えようとすれば,他人にとって不快とも言える表現を用いなければならない場合もあるからだということです.
 例えば,戦争や紛争というものに関する主張を行おうとすれば,その悲惨さを伝えるために,被害の状況を伝えるべく写真を掲示することも許容されるべきだということです.動物虐待を問題にしようと思えば,虐待された動物の写真を持って訴えを行うことも当然です.さらに,国が行ってきた強制不妊手術やハンセン病者の隔離などは,まさに,そのような類の表現となるでしょうし,しかし,それらが許容されるべきだと言われれば納得できると思われます.

 そのため,性風俗産業で働く方の社会的な保護の在り方などを訴えようとすれば,冒頭のほぼ全裸の女性の写真を掲載するようなこともあり得るかと思いますが,それが政治的意見である限りは許容されるべきです.
 仮にそれが泡沫候補者と呼ばれるような方々によるものであっても,多くの国民が関心を示さない,気づくことのない社会の闇を照らし,その問題を社会に訴え政治により解決したいと思い行動することは,民主制において崇高な行為であるとともに,表現の自由として最大限保障されなければなりません.大多数の方から見れば「こんなことを」と思われるようなことほど,保障されるべきとも言えます.

 そして,そのようなことが許容されることこそが,民主制における自由が保障されることの表れだと思えます.香港から亡命された方の言葉には非常に重いものを感じるとともに,それとは別に,昔聞いた「都知事選はお祭りだ」との言葉を思い出し,その言葉に愛おしさすら感じました.

 今後,選挙で候補者の掲示板を見るたびに,私の住むこの国が,自由な国であることを確認できる,そんな日本であり続けることを願って止みません.

マニュアル車を増やして欲しい

 タイトルについては自分の好みによるものですが,単に,マニュアルの車種を増やして欲しいというだけでなく,そうすることが社会的にも有用ではないかとも思っています.

 とある大学の研究室の調査では,オートマ車とマニュアル車の事故率を比較すると,マニュアル車の方が有意といえるほどに割合が低かったとのことです.社会的に有用ではないかとはこのような意味においてです.
 事故率が低い理由については推測するしかありませんが,操作がオートマ車に比較して複雑であるため,慎重に運転するからではないかという意見があるようです.

 他方で,登録車の約98%がオートマ車だそうです.
 そのため,車の運転が好きな方,あるいはトラック等の職業として運転する方など,運転技術の優れた方が残り2%のマニュアル車に乗るため,その分,事故率が下がっているのではないかとの意見もあるようです.そのため,自動車の動力伝達装置の相違に由来して差が生じているとはいえないというご意見のようです.

 しかし,運転技術は,単に,クラッチとシフトレバーの操作が上手いかどうかというだけの問題ではなく,道路上の車両の状況についての認知能力等が大きいのではないかと思います.例えば,男性と女性とでは,空間認識能力が男性の方が高いため,自動車の車庫入れなどは,男性の方が女性よりも比較的得意だと聞いたことがあります.運転技術は,単に,クラッチ等の操作だけの問題ではないはずです.

 また,左手でスマホを持ったまま運転をしている方をよく見かけますが(違法です),左手でシフトレバーを操作することから解放されたことが大きな原因ではないでしょうか.

 この「ひとりごと」の冒頭にご紹介した鷺沢さんも,オートマではなくマニュアル車を好んで運転された方のお一人です.
 私の場合,最初に取得した免許が二輪車で,マニュアル車だったことも影響しているものと思いますが,意図しないタイミングでエンジンブレーキがかかったり,加速したいと思った時にギアが上げられて思ったように加速できないことにストレスを感じます.

 車にご関心のない方からすればどうでも良いことだと思いますが,マニュアル車の普及拡大と併せて,各メーカーのラインナップが増えることを期待しております.

物の価値に対する考え方

 前回の投稿で,高級腕時計について触れましたので,私の「物」に対する価値観について少しだけ述べます.
 結論としては,機能性を第一に重視するということです.
 つまり,私にどれだけの収入があり,お金を持て余したとしても,高級腕時計は買わないだろうということです.

 以前からもそうだったかというと,はっきりと自覚していたわけではありませんが,そのような感覚を持っていたことは事実です.このことをはっきりと自覚するようになったのは,次のような話を聞いてからです.

 まず,想像して欲しいことがあります.
 それは,あなたが,ベンツ(車)とヴィトンのバッグ(鞄)を購入したいと考えた時に,どちらも購入するだけの予算がない場合,どうするかということです.

 日本人であれば,その多くの方が,車はベンツではなく,高級車という部類に含まれるのであれば,それよりもランクを少し下げたものでも良いと考えるのではないでしょうか.そして,その分の予算をバッグに充てて,バッグについてはヴィトンの本物を購入するだろうということです.
 そのことを聞いた時,私自身,そう言われれば確かにそうだなと思いました.

 しかし,とある国の方は,車については絶対にベンツでないとダメで,反対に,バッグについては,極端な話,ヴィトンの偽物でも良いという選択をするそうです.
 その理由は,車というのは,安全に移動することが目的である以上,安全性のためにどれだけのお金を払っても高いということはないからです.
 その反面,鞄は,物を収納してそれが落ちなければ良いというのが鞄の機能として求められることなので,それが満たされれば良いからということでした.つまり,誤解を恐れずに言えば,ヴィトンのマークが本物か偽物か,鞄にとってはどうでも良いということです.

 このような考え方にたてば,時計は,時刻を正確に刻んでくれればそれで良いのであって,それ以上にお金をかける必要はないという判断に至りやすくなります.
 もちろん,電波時計のように,自動的にズレを補正したり,あるいは,太陽光による充電機能により電池交換が不要となることなどがあれば,その物の価値を高めることに繋がります.そのような場合には,その価値に見合ったお金支払うことは十分に意味があるといえます.
 また,腕につけるという性質上,それに伴う不具合(金属アレルギーや汗をかいた場合のメンテナンスのしやすさ等)を軽減するということがあれば,その点は価値があると評価して良いと思います.

 そのため,高級腕時計の「高級」が「ブランド名」だけによる限りは,私は高級腕時計は購入しないと思います.

 もちろん,なんらかの考えのもと,高級腕時計を購入する方を否定するつもりはありませんし,高級腕時計の「物」としての価値を否定するつもりもありません.
 おそらく,時刻の正確性も高く,付け心地も良いだろうと思いますし,さらには,所有感を満たしてくれる点では,お金をかけるだけの価値があるのだろうとは思います.
 また,私の持つ価値観が,どのような物(例えば,デザイン性が重視される場合)あるいはどのような場面(例えば,愛着等がある場合)においても絶対ではないとは思います.

 しかし,「物」に対するこのような考え方は,モノ作りをする方,そして,出来上がった製品に対する素直な評価につながるのだと思います.「物」だけでなく,役務(サービス)などについても,同様な価値観を持って評価をすることが公正ではないかとも思います.
 何らかの場合の行動ないし判断指針としては有用ではないかと思います.

 なお,私が現在使用している腕時計は,とある海外のメーカーのもので,15年以上使用しています.時計機能だけのシンプルなもので,華美さや高級感はありませんが,そのシンプルさがデザインにも反映されていて見た目も気に入っています.
 また,時計本体の厚みが6ミリ程度ということで,腕につけながら感じる重さも,動作等に伴う違和感も少ないため,同じメーカーで同じような機種のものを使い続けています.
 機能性という点だけを考えて,アップルウォッチの購入を考えたこともありますが,いまだに購入するには至っていません.もし,現在使用している時計よりも高額なものを購入することになれば,アップルウォッチの方が,高級腕時計よりも先に候補に上がると思いますが,やはり,今の時計を使い続けるだろうと思います.
 そのような意味では,物に対する愛着等の念を否定するものではありません.

高級腕時計

 高級腕時計が高値で取引され,更には,これに関連する詐欺,強盗が起きているという記事に接しましたので,このことについて少しだけ.
 結論としては,私が時計職人であれば,時計の価値を評価してもらえることは喜ばしいと思えても,このような状況を望むことはないだろうと思います.そして,これらの時計が,本当に腕時計を愛する方のもとで,より長く使い続けてもらえることを望みます。

 私が好きな自動車メーカーの一つにスズキ自動車があります.
 同社のものづくりにおいて,良いものをより長くお客様に使ってもらえるようにという考え方があるようです.
 私としても,良いものを長く使いたいという考えが強く,そのため,物を選ぶときには,「良いもの」の基準として機能性を重視した上で,長く使うことができるものを選ぶようにしています.

 しかしながら,この考え方(特に,「より長く」という点)は,製造企業としてはあまり利益にならない考え方です.
 高度経済成長期のように,作れば作っただけ物が売れるという状態が製造企業にとっては利益になりますが,作った製品が長く使われ,買い替えられることがなければ,いずれは,新たに作った物が売れない状況に至ってしまいます.
 この点で,スマートフォンの製造企業を批判するわけではありませんが,2年ごとに新機種が発表さ買い替えを促す状況を見れば,「良いものを長く」ということとは対極的であることがよく理解できると思います(もちろん,そこには機能面での進化が伴うため,一概に批判できることではありませんが,一般人からすれば,そこまでの機能がなくとも十分だという場合が多いように思われます.).

 そうだとすれば,「良いものをより長く」という考え方で作られる製品というのは,それが愛されて長く使われるようにという強い思いが込められているのだと思いますし,だからこそ,「物」それ自体が高く評価され,それに見合った価値が与えられるのだと思います.
 おそらく,高級腕時計と言われる時計を作る職人も,同様に「良いものをより長く」という考えで一つ一つの製品を作ったのではないかと思います.

 そのため,時計職人としては,その時計が高く評価され世代を超えて長く愛用され,それとともに価値が上がること自体は歓迎しても,単に資産運用であったり,投機の対象として取引きがされ値段が釣り上がること自体は望んではないだろうと思います.
 値段だけは上がり続けながらも,時計として使ってもらうことなく(美術品のような観賞用にするならまだ理解できますが),更には強盗や詐欺といった犯罪の対象となることで,本当にそれを時計として使いたい人の元には届けられることがないという状況は,時計の側からしても,それを作った職人としても本望ではないはずです.

 私自身,時計にお金をかけることはしませんので,高級腕時計を購入することもそれを使用することもまずありません.そのため,高級腕時計の愛好家等に対してその価値観を共有することはありませんが,高級腕時計をめぐるマネーゲームに対して嫌悪感を有するのであれば,その点では,大いに共感できるように思います.

 時計職人の技術とそれによって生み出された腕時計が適正に評価され,それらを愛する方々が,これを適正な価格で購入できる状況に戻ることを祈りたいと思います.
 

「おかえり?」「いらっしゃい?」

 子供に対してどちらを使うべきか?

 子供(第1子)は,今年3月に高校を卒業し,ワーキングホリデーを利用して,ニュージーランドに行っています.
 おそらく,来年,日本に戻ってくるはずです.

 ここで,「はず」というのは,私としては,そのまま世界を旅してきて当分帰ってこなくても良いと思っていることを意味します.要するに,自由にやってほしいという意味です.

 ところで,そうではあっても,いずれは日本に戻ってくるでしょう.そこで,その場合には,私(両親)の元に少なくとも一度は戻ってくることになると思いますが,その場合

 「おかえり」
 「いらっしゃい」

 のどちらをいうべきなのか,少し考えてしまいました.

 私自身,子供には,親の支配から逃れて自由に生きてほしいと願っています.
 そう考えれば,まだ19歳(になる)という年齢ではありますが,親から自立したという以上は,それを後押しするという意味でも「いらっしゃい」となるように思えます.
 つまり,あくまでも,自分の人生の旅の途中で,両親の元に立ち寄ったという場合である以上,「おかえり」ではなく「いらっしゃい」になるのかなということです.

 他方で,どれだけ自由に生きようとも,どこかに自己帰属を見出したいというのが人間だと考えれば,親(ないしその存在)がそのような場所にあたるとも言えます.
 そして,その場合,子供においても,どこかに帰る場所があるということが,より自由に生きていくことにつながるようにも思われますので,そうであれば「いらっしゃい」ではなく「おかえり」と言ってあげる方が良いようにも思います.

 自分の場合は,学生の頃や社会に出て間もない頃は,実家に戻れば「おかえり」と言われることが自然だったように記憶していますが,最近では,「いらっしゃい」に変わっています.
 いつから「おかえり」が「いらっしゃい」に変わったのかは覚えていませんが,確かにどこかの時点で変わっています.

 そうすると,私の子供に対しても,とりあえずは,「おかえり」と出迎えつつ,ある時期になると自然に「いらっしゃい」に変わるはずだから,こんなことを意識することなく自然にしておけば良いのかもしれないとも思わないわけではありません.

 どうすべきなのか.
 いちいち,こんなことを気にする必要はないとも思われるかもしれませんが,いずれ,どちらにするか決断を迫られる時は確実に訪れるはずですので,それまで,悩んでみたいと思います.

性風俗業にも持続化給付金を!

 コロナ禍の際,多くの中小規模事業場に対して,持続化給付金が支給されました.しかし,風営法上の性風俗産業に対しては,これを支給しないものとされています.
 現在,支給を申請しながらも不支給とされた性風俗産業の事業者等が,この不支給処分を争って訴訟をしています(私はこれには何も関わってはいません).
 ここでは,そこでの理由について,少し考えたいと思います.
 私の意見としては,不支給処分(あるいはそのような立法)は不当な差別として無効とし,給付すべきだというものです.

 裁判における国の主張は,性風俗業を「性を売り物とする本質的に不健全な営業とされ,社会一般の道徳観念にも反するものとされている」というもので,かなり露骨な表現を用いています.これに対して裁判所は,次のように述べています.

 「客から対価を得て一時の性的好奇心を満たし,又は性的好奇心をそそるためのサービスを提供するという性風俗関連特殊営業が備える特徴が多くの者が共有する性的道義観念とは相容れないという考え方がある」

 裁判所は,このような理由から,不支給とすることも不合理ではないと述べています.一見すると,「性を売り物とする本質的に不健全な営業」という表現は,否定し難いとも思われます.

 そもそも論として,性について,金銭等と対価的な価値を置くこと自体,私としては否定的です.そのような意味では,性風俗産業の存在それ自体に何の問題もないとは考えません.

 しかし,上記のような国の主張や裁判所の判断からすれば,「不健全」という言い方をしているものの,実際には特定の人に対する差別的な価値観に支えられているように思われます.
 つまり,そこでサービスを提供して収入を得ること(営業・事業)それ自体を,社会的に問題のあるものとして認識しているというだけでなく,そこで働く方(多くは女性だと思います)のことを社会的に低いものとみなす,そのような価値観に基づいているのではないかということです.
 そして,そのように考えに立ってしまえば,その先にある,不支給処分による効果,つまり収入が絶たれることにより生活が困窮し,人としての生命すら脅かされる事態が生じうるという現実にも目を向ける必要がなく,不支給処分を容認するという結論を導くことが容易になってしまいます.

 しかし,それで良いのでしょうか?

 裁判所の述べる,「不健全」という言葉は,よくよく考えれば,そのような実体があるかどうかも怪しい,抽象的な言葉上も問題だとも言えます.「考え方がある」というのはまさにそのことを示しています.法律上認められている事業でありながら,そのような抽象的な理由で差別することに理由があると言えるのでしょうか.

 そして,不支給処分による効果は,そこで収入を得て生計を立てて暮らしている人からすれば,生きていくことそれ自体を否定されるに等しいともいえます.そのような抽象的な理由だけではなく,さらに踏み込んで,そのようなことにも目を向けた上で,不支給処分とすることの是非が判断されるべきです.

 20年以上前に読んだ雑誌には,とある国の娼婦のことが載っていました.
 その方は,目が見えない方で,写真からみた感じでは,当時の私(20歳)からすれば,かなり年配の方のように見えました.
 記事の中で,彼女の1日について記載がされていましたが,仕事をして収入を得た後は,自分の食事と,町に住み着いた野良猫の餌とするために魚を買うのが日課だと書いてありました.
 その方は,目が見えない(全盲かどうかまでは分かりませんが,掲載されていた写真はどれも目を閉じていたものだったように記憶しています)ということもあり,年齢的なものもあり,また,その国のその地方の産業の状況などからして,おそらく,そのようにして生計を立てるしかないのだと思います.
 しかし,それにより得られた収入によって,その方は確かに生活をして,自分の人生を生きています.

 今回,給付金が不支給となった方々がこの場合と異なるかというとそうではないはずです.そこで得た収入で生計を立てています.
 性的なサービスの対価が発生する以上,「人」というものがお金で換算されてしまうという意味での不健全性はあるとしても,それが本人の生活費となり,子供の養育費となることを考えれば,それ自体に価値をつけることはできません.
 子供が必要十分な養育と教育を受けて健全に成長し,人類の将来を担うことを考えれば,その価値はプライスレなはずです.そこには「不健全」などという評価があてはまることはありません.

 この点で,「援助交際」という言い方で未成年者による事実上の売買春が問題となった時期がありましたが(今でも同様なことはあるとは思いますが),そのことの何が問題かといえば,そこで得た収入が高級なブランド品の購入など,その人の生活に直ちに必要とは言い難いものに充てられていたことだと私は考えています.
 生活に困窮しているわけではなく,そのようにしてでも収入を得なければ学校に通えないというものでもなかったはずです.
 コロナ禍で,この事件の性風俗産業で働いている方の置かれていた立場とは大きく異なるはずです.このような場合があることをもって,不支給とする理由には当たりません.

 まして,性風俗産業は,客を食い物にして収益を上げているものではありません.違法薬物の販売やマルチ商法など,消費者を喰い物にするものや,暴力を背景に便益をを要求する反社会的組織とも大きく異なります.
 そのような意味での不健全性があるとも言えません(もちろん,人身売買の温床となりうることは否定しませんし,そのような意味での「不健全」性を内在するということであれば,大いに問題と考えますが,ここでの議論は,そのことは別問題です.).

 以上のような理由から,私としては,不支給処分については取り消されるべきだと考えるところです.

教育勅語と親孝行と私の考え

 一部の方々において,教育勅語は良いものだという意見があるようです.
 しかし,私は反対です.

 まず,教育勅語とは,明治神宮のHP(https://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.php)に「日本人にとって何が『大切なこと』なのかしを示された手本」と題して説明がされています.
 内容は別にして,明治天皇が発布したものです(上記HPでは「渙発された」と表現されています.).

 その内容は,親子関係(親孝行)のこと),兄弟のこと,夫婦仲のことなどが含まれています.また,当然ながら,国に対する態度(愛国心など)も含まれています.

 一見すれば,悪いことは書かれていないようにも思えます.
 しかし,教育勅語は,当時,国を統治する最高権力者たる天皇が,自らの支配する「国民(臣民)」の在り方を示したものである以上,国(国民)を支配するための手段という性格を拭い去ることはできません.
 そうであれば,内容がどのようなものであったとしても,「個人」が尊重されるべきとの私の考えからすれば,反対という立場にならざるを得ません.

 では,その内容についてはどうでしょうか.

 この点,教育勅語を良いものだという意見を有する方々の多くは,親孝行などを推奨するという内容を理由に,そのような意見を有するものと思われます.
 しかし,私の考えからすれば,これについてもとても危険な価値観を孕んでいるのではないかと思っています.その理由は,親孝行が推奨されるべきことかということに疑問を感じるからです(以下では,親孝行についてのみ述べていきます.).

 「親孝行」それ自体を否定する気はありません.しかし,そのような概念(考え方)が自分の外側に存在し,一定の価値(要するに,世の中で推奨されるべきことだという評価)を手にするに至った途端,そのような考えに到底至ることのできない方々にとっては,激しいほどの鋭さを持って痛みを与える恐れがあります.

 刑法が改正され,監護者による強制性交(刑法179条)が犯罪として明記されたように,親から喰い物とされてしまった子からすれば,そのようなことが安易に言えないことは容易に想像ができると思います.
 暴力の対象とされ,搾取の対象とされ,あるいはネグレクトなどの虐待を受け育った子らが,「血縁」という,自分では選ぶことのできな関係が存在することを理由に,無条件で「親孝行」を強いられるのは正義といえるのでしょうか.

 社会における大多数の中で,一定の価値観が幅を利かせて世の中に浸透する中で,それにより感じる痛みに対して声を上げることもできず,耐え忍んで生きている方は確実に存在します.

 誤解のないように繰り返しますが,私自身,「親孝行」を行うこと,それ自体を否定する気はありません.しかし,そのことを絶対的な意味で「人として行うべきこと」と評価する価値観が所与のものとされ,しかも,国の統治者・権力者から規範として示されることを肯定することは,やはり,私にはできません.

 ですから,教育勅語には反対です.

 なお,最後に,そんな私でも,親に対する感謝は必要だと思っています.
 それは,この世に生を与えてくれたということだけは,絶対的に否定することができないからです.
 そして,感謝の気持ちは,「孝行」という形だけでなく,それ以外の行動として示すことは可能なはずです.
 ですから,親に対する感謝を忘れなければ,親孝行はしなくていいと思っていますし,自分以外の誰かから強要されるべきものではないと思います.
 私自身,子供に対して親孝行をしてほしいとは思いませんし,絶対に求めることはしません.むしろ,人としての強さを身につけ,私(親)から自由になって生きてくれることを願っています.そうしてくれることが,私に対する一番の感謝の示し方だと思っています.
 

「自由」について

 「自由」というと,英語では,「free」と「liberty」がありますが,ここでは,私にとっての自由とその意味について少しだけ.

 この職業についてからではなく,ある程度の年齢に達してから以降,他の方々よりも,自分が「自由」や「平等」というものにとても敏感であることに気づきました.もちろん,この職業についたことで,そう感じる理由などを論理的に理解することができるようになったようにも思います.
 先日,これに関することで,役所に勤めていた時のことをふと思い出しました.

 霞が関に通勤するようになった2年目のことです.
 同じ島(机を前後向かい合わせて一つの塊になるように配置されもの)で私の向かいに座っていた方(別の係の方で,以下「Aさん」といいます.)から,「今後,昼休みの電話当番を決めましょう」という提案がなされました.
 この時,私はとても怒り,「そちらの係だけでやってください」と言い,これに応じることはありませんでした.

 そのように怒った理由は,「自由」が制約されるからです.

 昼休みである以上その時間を自由に利用して良いのですが,国民に対する全体の奉仕者たる公務員という立場からすれば,Aさんの提案はもっともなものとも思えます.
 ただ,それまでの経緯等が関係します.

 Aさんは,私が霞が関に通勤するようになった1年目から,同じ島で働くようになりました.彼の場合は,内部的な移動でその席に来ることになったものです.
 霞が関は不思議なところで,帰宅する時刻は極めて遅く,誰も定時に帰るようなことはしませんでした(今でもそうかは知りません).
 にもかかわらず,昼休みになると,その職員のほぼ全員が必ず,一斉に昼食をとりに庁舎外に出る又は庁舎内の食堂に行く,あるいは,地下のコンビニに昼食を買いに行くという行動をとります.当時の私にとっても,非常に不思議な光景でした.

 Aさんも同様で,その時は,Kさん・Sさんという方々が,必ずAさんを誘って食事に出掛けていました.そのため,昼休みになると,島には弁当を持参していた私だけが1人残った状態で,食事,あるいは食事後に歯磨きをしている最中でも,電話が鳴った時は無視するわけにもいかないので,電話に出ていました.
 この時の私の対応は,義務としてではなく,公務員という立場において,そうしなくとも誰からも咎められない状況であったにもかかわらず,いわゆる善意で行っていたものです.

 ところが,私が霞が関に来て2年目,年度末の人事異動によりKさんとSさんが他庁に移動となりこの職場を去ってしまいました.そのため,Aさんが昼食に誘われることがなくなり,Aさんが昼休みに離席することもなくなりました.Aさんは,毎日,庁舎に出入りする業者のお弁当を注文するようになり,KさんとSさんの代わりに異動してきた方々も,同じように弁当を注文していました.
 その結果,前年と異なり,私の座っている島には,Aさんと私以外の係員も含め,常時5人ほどが自席で昼休みを過ごすようになりました.

 そこで出されたのが,上記の提案でした.

 Aさんからすれば,昼休みに庁舎外に出かけることのない私であれば,当然のことのように提案を受け入れると思ったのかもしれません.彼にとっても,今後昼休みに庁舎外に出ることがないため,そのような義務を課されることで生じる不利益が大きくはないという考えだったのかもしれません.

 しかし,私からすれば,今まで,昼休みである以上その時間を自由に利用し,電話に出るかどうかも自由であることを前提に,「(食事などを中断して)電話に出る」という意思決定をしていたものです.1年間,善意で昼休み中に電話対応をしていただけです.
 ところが,Aさんの提案に従うこととなれば,それ以後,担当となる日については,それが義務になり,昼休みの自由な時間が制約されるということを意味します.
 自席で昼食を取ること,その際に鳴った電話に出ることすらも「自由」に行っていた私にとって,これを「義務」とされてしまうことにひどく抵抗感を覚えました.

 上記のような経緯からすれば,Aさんが,食事に誘ってくれる同僚がいなくなったことを契機にそのような提案をしてきたというその動機があったことは明白です.そのことに対して,私が嫌悪感を抱いたことも事実です.
 しかし,そのような嫌悪感だけで,私がこれを拒否したものではありませんし,このことが,そうしたことの本質的な理由ではありません.

 私にとって「自由」であることが重要であり,その自由を前提に,どのように物事を判断し,どのような行動を取るかが,自分の生き方において重要だと考えています.
 そのため,自分がそのような環境にいることが,自分の人生において尊いことであり,価値があることだと思っています.

 おそらく,私が1年目に霞が関に来たとき,最初からそのような電話当番という制度があり,それが割り当てられるのであれば,当然のこととしてこれに従ったものと思います.あるいは,Aさんがそのような提案をしなくとも,2年目以降も,善意で電話を取り続けたのだろうとも思います.

 しかし,その時感じた抵抗感,そしてAさんの提案を拒否したことは,自分にとってのこのような考え方に根付いているものだと思います.
 あまり,ご理解や共感を得られないことかもしれませんが,私の考える「自由」がどのようなものかといえば,以上のことが,その一部を示してくれるものです.

 私のことを,「面倒臭いやつ」だと思われるかもしれませんが,ご関心がある方は,まずは,ご相談の予約からお願いします.