司馬遼太郎の「この国のかたち」という本の中で,人は歴史の中に生まれる,という言葉(考え方)があったように記憶しています.
人間は人間社会に生まれ,動物(例えば猫)もその動物(猫)の社会に生まれるが,人間だけは歴史の中に生まれるという言い方だったと記憶しています.
ところで,戦争に対する考え方について,
「少なくとも私自身は,(戦争の)当事者とは言えない世代だ.反省なんかしていないし,反省を求められるいわれもないと思っている」
と発言した政治家がいます.
新聞記事によれば,高市さんの1995年の時の発言だそうです.
今年(2026年)8月15日の全国戦没者追悼式の首相式辞では,高市さんは,前回の石破さんの時と異なり「反省」「不戦の誓い」という言葉を使わなかったそうです.
確か,安倍さんの時に,いつまでも反省や謝罪をするのはおかしいという考えから,8月15日の式辞において,「反省」が使われなくなったと記憶しています.
戦争を起こしたのは我々ではない昔の世代だからということを言われれば,なんとなく,そんな気にもなってしまいます.
しかし,昨今の政治情勢を見ると,この考え方にしっくり来ないんですよね.
国旗損壊罪の審議では「法案成立を契機に愛国心も醸成されていく」とも述べた日本維新の会の議員もいました.
高市さんの発言ではありませんが,連立与党として推進したはずですよね.
さらに,皇室典範の改正の際,2600年続く皇統を持ち出し,とある議員は「皇統の伝統と歴史を前に謙虚でありたい」と発言し,高市さんも,かねてから「日本の歴史を貫く支柱が天皇だ」とも述べています.
そうすると,「日本」という国の歴史において,戦争に及んだことは事実で,朝鮮半島に侵略したりしたことは否定し得ないはずですが,それも含めて「日本」という国の国民として,世界の中で生きていく必要があるんではないでしょうか?
平和主義を原則とする憲法が存在する以上,いつの世代に生まれたとしても,戦争に対する「反省」や「不戦の誓い」を政策,特に外交の基礎に置くことは必須なのではないでしょうか?
そして,まさに,力による他国に対する支配・侵略の機運が世界中で高まる中,それを食い止めるために,「日本」という国として,過去の「反省」や「不戦の誓い」も含め,反戦・平和を訴えなければ説得力がないはずです.
それなのに,「反省」「不戦の誓い」を使わなかったは首相としての高市さんの式辞や,「少なくとも私自身は,〜」との発言の根底にある考え方ってなんなんでしょうか?
高市さん自身が,「国」の歴史に国民が縛られる必要がないとお考えであるのであれば,天皇制を維持する必要もないんじゃないですか?
戦時中に使われた日章旗を日本の国旗とし,その損壊を刑罰を持って禁止するほどに保護しながら,戦争自体に対する認識だけを変えるのも不自然ではないでしょうか?
高市さんら政治家の考え方は,私からすれば,ダブルスタンダードに思えて,なんともしっくり来ません.彼らの精神的な基礎には何があるんでしょうか?
そう遠くない将来,軽はずみな判断で戦争に突入しそうに思えてなりません.