「ダサい」?

 高市さんが,国会の場で,自分で任命した簗農林水産大臣について「ダサい」といい,最終的に更迭するに至りました.

 世論調査では,この件を理由に内閣支持率がそれほど下がってはいないようですが,結論としては,高市さんは総理大臣は辞めるべきだと思います.
 その理由は,そのような発言をすること自体,仕事を行う人間として,能力がないといわざるを得ないからです.

 この「ダサい」という発言は,簗大臣が,自分の選挙区での支援者に対する演説で,自分のことを選挙で応援しなかった自治体の「予算をカットした」と公言したことが問題となり,その発言に対して高市さんからなされたものです.
 高市さんも,当初は,「仕事でかえせ」と言うなどして庇っていたようですが,国会で任命責任を問われた際に,簗大臣の発言について「ダサい」と述べるに至ったものです.
 そして,その翌日だったと思いますが,簗大臣が辞任するに至りました.

 私が,この「ダサい」発言で高市さんの能力がないと考えるのは,「ダサい」(反対に「イケてる」)という発言が感性によるもので,理性に基づくものではないからです.
 そうすると,そのことがなぜダサいといえるのか,本来的には,その理由を具体的に示すことが必要であるのに,それをしないまま「ダサい」と述べるだけで,何が問題であるのかを示すことにはなりません.
 なぜあなたがそのことを「ダサい」と受け止め,そして更迭まで至るのか,そのことを説明せずに済ましてしまうのであれば,総理大臣として内閣の首長を務めることはできないと思います.

 話は少し変わりますが,最近,裁判所等に提出する書類を作成すると,それをAIに読み込ませて,誤字脱字だけでなく,論理性や表現に問題がある箇所を指摘するように指示を出すことがよくあります.
 そうすると,AIは,誤字脱字のみならず,率直にズバズバと「ここは論理が弱い」「論理が飛躍しています」「表現として裁判所から嫌われます」など指摘してくれますが,その際に,そう指摘する理由を必ず示してくれます.

 私はこれまで,行政の役人として文書を作成・起案し,こと細かに上司に修正されるという経験をしたことがあります.
 弁護士となってからも,一緒に仕事をした他の弁護士から表現を直されたこと,あるいは,ダメ出しをされたことは幾度となくあります.
 しかし,そう修正するだけの理由が明確でなく,「それはあなたの趣味か?」としか思えない場合が結構ありました.
 でも,AIは,論理の弱さや表現の誤り等を指摘する時に,必ず,理由をつけてくれるんです.そして,それを繰り返して修正を重ねることで,確実に文書の質が向上することを実感できています.

 もちろん,AIは嘘をついたり誤った内容を提示することはありますので,100%信頼して良いものではありませんが,ここではそれは別にして,少なくとも,
 「この表現はダサい」
という理由で修正を求めることはありません.

 でも,仕事って,そういうものですよね.

 高市さんは,どこまでのことを考えて,簗大臣について「ダサい」といったのかわかりませんが,少なくとも国会の場は,感性だけで物事を決めて良い場所ではありません.
 ファッション評論家が,街角ファッションチェックなどといって「ダサい」とか「イケてる」とか自分の感性を押し付けてもそれが許される場面とは全く異なるものです.

 国民が理解できる言葉で説明しましょうよ.
 できないんですか?

 憲法43条1項は,国会議員について,「全国民を代表する」と規定しています.その議員が当選するにあたって,票を投じてくれた人もそうでない人も区別することなく,全国民の代表として活動することが求められています.
 さらに,国会議員としてだけでなく,大臣として行政庁のトップとなるのであれば,与党や野党の区別なく,全ての国民に対して公正,公平に法を施行すべき立場となるものです.

 そうすると,政党間の対立がある国会議員としてはまだ許容されうるとしても,行政のトップ(大臣)としての資質があるのかというと否定されるはずです.
 だから,簗大臣にはそのような資質がなく,それを任命したことは責任問題といえるんです.

 私の感性からしても,簗大臣の発言であったり,そのような発言に至までの考え方については,率直に「ダサい」と思いますが,そこまでのことを説明しなければ伝わらないはずです.
 高市さんが,同じような理由で簗大臣の発言を「ダサい」と考えたのかどうかはわかりませんが,国会の場面で,総理大臣という立場で感性に訴えるような発言しか行わなかった以上,総理大臣としての能力を疑わざるを得ません.

家族の一体感 = ドグマ?

 選択的夫婦別姓について,賛成派と反対派がいますが,反対派がいまだに

「家族の一体性が損なわれる」

ということを理由に挙げることが理解できません.

 とある時の総理大臣が「女性ならではの感性」

と述べて,実際にそんなものがあるのかないのかという批判を浴びたように,「家族の一体感」というものも,実際に存在するといえるのでしょうか?

 確かに,私にも家族がいます.
 しかし,カミさんであっても,子どもに対しても,「中野〇〇」という呼び方はしません.当然ですよね.
 名で呼ぶことがほとんどで,改めて家族みんなが同一の「姓」であることを自覚するように,「中野〇〇」なんて呼び方はしません.諸外国と同じようにファーストネームで呼ぶだけですよね.

 また,我が家にも,一応の家訓
  ・親より先に死ぬな
  ・保証人にはなるな
  ・乗り物は自分で買え
はありますが,我が家独自のものでは決してないはずです.
 「親より先に死ぬな」はほぼ人類共通の命題だと思いますし,さらにいえば「ほ保証人〜」と「乗り物は〜」は,実は,母方の祖母からの訓示でして,「中野」の家訓ではありません.

 そうすると,結局のところ,家族以外の人間(近隣住民),地方自治体,国が国民(我が家の家族)を把握するにあたり,一つの戸籍に一つの「姓」があって,それでまとめて取り扱うという便宜的なものでしかないというのが実際の理由でしかないように思います.
 つまり,精神ないし文化的な意味での「家族の一体感」ということを理由に「姓」が用いられているのではなく,国民を把握する技術的な方法という意味しかないということです.

 その反面,各国民にひとつずつマイナンバーが付与され,家庭裁判所で氏名の変更の許可を受けることはできても,変更することのできない番号で管理されるようになったことからすれば,「家族の一体感」という,得体の知れないもののために,夫婦同姓を強制する必要があるというのは,国民を把握する技術的な方法という意味でも理由がないように思います.

 そのため,結局のところ,「家族の一体感」という理由は抽象論であり,「日本」という名の宗教におけるドグマでしかありませんよね.
 なんとかならないものですかね.

15年

 本日(2026年10月4日)が終われば,弁護士登録してから,満15年となります.

 実際のところ,生まれてから中学校を卒業するまでと同じ期間(実際はそれよりも長く)弁護士を続けてきたという感覚はなく,この15年間何があったかと思い返しても,ぼんやりとしか思い出せません.

 1つ思い出せることがあるとすれば,弁護士1年目の頃,福岡のとある有名な弁護士から,

「15年ぐらいやると,尋問で何をすればいいかわかるようになる」

 と言われたことです.

 弁護士として15年経ってみても,まだまだ分からないことや知らないことばかりで,その有名な弁護士が述べたほどの領域にはまだまだ達してはいないはずですが,確かに,あの頃よりも,各事件においてやるべきことが明確にイメージできている感じはあります.
 証人尋問に限らず,事件の見通しとそれを実現するために必要ことについて,15年前よりは,少しは使える(お役に立てる)ようになったような気がします.

 ただ,このことを裏から見れば,15年間,弁護士として使えなかった(お役に立てなかった)ことが多々あったはずで,その時の最善を尽くしたかもしれないが,まだまだ,やれること,やるべきことがあったのではないかと思えてなりません.

 明日(2026年10月5日)は,弁護士となってから,15年と1日目です.

 明日は,今日よりも少しは使えるようになるため,能力を高め,技術を磨き続けられるよう精進できればと思います.

「国」に騙されないために

 高市さんの終戦記念日の首相式辞で,「反省」という言葉が使われなかったことが,各メディアでも取り上げられていましたが,高市さんは,それとともに,次のようにも発言しています。

 「戦争の惨禍を二度と繰り返させない」

 過去の首相式辞では「繰り返さない」と述べられていたものが,
 「繰り返えさ『せ』ない」
 という表現に変わったということです。
 これについて,ネット,その他テレビ番組のコメンテーターの発言や各メディアの報道を見れば,主体や責任が曖昧になると批判する記事等が多かったように思われます。

 しかし,一方で,とあるネットの動画では,

「繰り返さない」は日本だけだが,「させない」は他の国も含めてのことだから範囲が広くむしろ,より一層世界の平和を強く誓う意味になる

 と言って,コメンテーターの発言や各種メディアの報道内容を偏向的だと批判していました。
 このような高市さんを肯定的に捉える意見の出所ははっきりと把握していませんが,実際のところ,どのように評価すべきでしょうか?

 確かに,日本が戦争をしないことは当然として,他国に対しても,外交を通じて武力による侵略等をさせないことは非常に重要です。
 そのため,常に世界の平和を強く誓うのであれば,それはそれで良いと思います。
 しかし,この発言は,日本の終戦記念日における式辞です。
 単に,一般的抽象的に世界平和を希求しましょうという文脈で述べられたものではなく,日本が開始した太平洋戦争の終戦における「首相」の式辞です。
 そうであれば,日本自身が「繰り返さない」という誓いを述べたうえで世界平和を強く誓うという意味のことを続けて述べるのが自然ではないでしょうか。

 先日,とある会社で危機管理研修を行いましたが,自らの痛いところ(過失や誤り等)を認めた上で,次に何を行うのかが常に求めらるということを説明しましたし,その会社の社長も同じような認識を持っている方でした。
 それと同じで,「戦争の惨禍を繰り返す」ことについて,自国の行為としてフォーカスしなければ,その次の外交での努力というものに説得力がなくなります。

 このように言えば,印象的・情緒的しか聞こえないかもしれませんが,仮に,この首相式辞を海外の方,英語圏の方が翻訳した場合を考えるとよくわかると思います。
 試しにGoogleで翻訳してみるとこうなりました。

「我が国は,戦争の惨禍を繰り返させない」
→「Our country will never again allow the horrors of war to be repeated.」

「我が国は,戦争の惨禍を繰り返さない」
→「Our country will never repeat the horrors of war.」

 「繰り返させない」は,動詞(述語)ではなく,to以下で修飾されるallowの目的語である「(繰り返される)戦争の惨禍」=「the horrors of war to be repeated」と位置付けられています。
 そして,「我が国」は何をするかというと「will never again allow」です。これだと,「決して許さない」というニュアンスとはなりますが,当事者ではない第三者という立場で「戦争の惨禍」について語っている意味合いが強い印象です。

 もちろん,そのように英訳したからだと言われればそうかもしれませんが,一般的に考えて,高市さんの「繰り返させない」という発言は,上記のネットでの解釈のような,自国のみならず他国を含め「繰り返させない」というニュアンスでは理解されないということです。
 やはりこれだと,単なる傍観者として,賛成か反対かと問われれば反対だと述べるのと同じです。

 それに対して,「繰り返さない」では,述語は「will never repeat」で,自らが繰り返さないというストレートな意味に英訳されています。
 その違いは一目瞭然です。

 高市さんシンパの方々が,その式辞をより一層世界の平和を強く誓うことになると解釈したいというのであればそうすれば良いですが,少なくとも,世界においてそのように評価されることはないはずです。

 そして,もし,このような解釈が正しく,高市さんもそれを意図したと考えるのであれば,要するに,国民はそれは,高市さんに騙されているということです。
 高市さんの本音はそこ(世界の平和を希求)にはありません。
 自国の戦争責任を希薄にしたいというのが主たる目的のはずです。

 高市さんは1人の個人ではあるとしても,1人の国会議員ではあるとしても,総理大臣です。
 日本という国の総理大臣というだけでなく,過去から未来へ続く地続きの歴史の中の日本の総理大臣です。過去の一時店の戦争責任を自らの立場で否定するかのような発言が,世界に対して日本という国に対してどのような印象を与えるのかを,誰よりもシビアに考えて行動すべき立場にある方といっても過言ではないはずです。
 それなのに,国民に対して,このような誤魔化しをするのであれば,高市さんの行う外交については期待できないと考えざるを得ません。
 国民は騙せても世界を騙すことは容易ではないはずです。

 そして,この種の高市擁護を聞いた時に真っ先に思い出したのが「国に騙されないために新聞を読め」といった,私がお世話になった新聞販売店の所長の言葉でした。

 新聞を読むということは,その記事や主張を全て鵜呑みにすることのように考える方がいますがそうではなく,むしろ,批判的(批判的というのは否定することではなく,客観的に良し悪しを判断することです)に検討する思考能力を養うためのものです。
 タイパ,コスパなどと言われネットニュースで切り抜かれた記事を見てその通りと信じるべきではなく,新聞記事などの,一定の分量のある客観的な情報のもとで,それを批判的に検討することで,国という最大の権力者に騙されないために,国民の一人一人が知性を養うべきです。
 もちろん,新聞がフェイクを載せるようになれば,あるいは,政権与党を擁護するようになれば新聞すら読む価値は無くなりますが,まだ,ネットニュースやSNSよりも信頼性,客観性は高いはずです。

 繰り返します,国に騙されないために新聞を読もう!

ダブルスタンダード

 司馬遼太郎の「この国のかたち」という本の中で,人は歴史の中に生まれる,という言葉(考え方)があったように記憶しています.
 人間は人間社会に生まれ,動物(例えば猫)もその動物(猫)の社会に生まれるが,人間だけは歴史の中に生まれるという言い方だったと記憶しています.

 ところで,戦争に対する考え方について,

「少なくとも私自身は,(戦争の)当事者とは言えない世代だ.反省なんかしていないし,反省を求められるいわれもないと思っている」

 と発言した政治家がいます.
 新聞記事によれば,高市さんの1995年の時の発言だそうです.

 今年(2026年)8月15日の全国戦没者追悼式の首相式辞では,高市さんは,前回の石破さんの時と異なり「反省」「不戦の誓い」という言葉を使わなかったそうです.

 確か,安倍さんの時に,いつまでも反省や謝罪をするのはおかしいという考えから,8月15日の式辞において,「反省」が使われなくなったと記憶しています.
 戦争を起こしたのは我々ではない昔の世代だからということを言われれば,なんとなく,そんな気にもなってしまいます.

 しかし,昨今の政治情勢を見ると,この考え方にしっくり来ないんですよね.

 国旗損壊罪の審議では「法案成立を契機に愛国心も醸成されていく」とも述べた日本維新の会の議員もいました.
 高市さんの発言ではありませんが,連立与党として推進したはずですよね.

 さらに,皇室典範の改正の際,2600年続く皇統を持ち出し,とある議員は「皇統の伝統と歴史を前に謙虚でありたい」と発言し,高市さんも,かねてから「日本の歴史を貫く支柱が天皇だ」とも述べています.

 そうすると,「日本」という国の歴史において,戦争に及んだことは事実で,朝鮮半島に侵略したりしたことは否定し得ないはずですが,それも含めて「日本」という国の国民として,世界の中で生きていく必要があるんではないでしょうか?
 平和主義を原則とする憲法が存在する以上,いつの世代に生まれたとしても,戦争に対する「反省」や「不戦の誓い」を政策,特に外交の基礎に置くことは必須なのではないでしょうか?

 そして,まさに,力による他国に対する支配・侵略の機運が世界中で高まる中,それを食い止めるために,「日本」という国として,過去の「反省」や「不戦の誓い」も含め,反戦・平和を訴えなければ説得力がないはずです.
 それなのに,「反省」「不戦の誓い」を使わなかったは首相としての高市さんの式辞や,「少なくとも私自身は,〜」との発言の根底にある考え方ってなんなんでしょうか?

 高市さん自身が,「国」の歴史に国民が縛られる必要がないとお考えであるのであれば,天皇制を維持する必要もないんじゃないですか?
 戦時中に使われた日章旗を日本の国旗とし,その損壊を刑罰を持って禁止するほどに保護しながら,戦争自体に対する認識だけを変えるのも不自然ではないでしょうか?

 高市さんら政治家の考え方は,私からすれば,ダブルスタンダードに思えて,なんともしっくり来ません.彼らの精神的な基礎には何があるんでしょうか?
 そう遠くない将来,軽はずみな判断で戦争に突入しそうに思えてなりません.

災害と違和感

 震災等があったとき,現地入りする総理大臣などをみると,いつも,「儀式だ」と思いながら,ため息しか出ません(ちなみに,過去最悪だと思ったのは,菅直人が2011年の東日本大地震の際に,津波で損壊した東京電力の福島第一原子力発電所の上空からヘリコプターに乗って視察した時です.).
 さらに,今回の熊本の地震については,高市さんが視察しただけでなく,その際に撮影されSNSにアップされた動画を見た時は,さすがに,怒りにも似た感情が湧いてきました.

 国民はなめられている.
 そして,被災者(災害)は利用されている.

 東日本大地震を目の当たりにして以来,災害が起きた時の我が国で起きる様々な出来事に,強い違和感を感じることがよくあります.
 上記の政治家の行動だけではありません.

 まずは,とあるテレビ番組の特集に対する違和感.

 2011年の東日本大地震が起きたとき,とあるミュージシャンが,被災地に入り,歩いてその様子を見ながら「何もできねぇ」と嘆くように何度も呟く映像を見たことがあります.何かの番組の中の企画だったと思います.
 そして,ひとしきり被災地を歩いた後,避難所のどこかの学校の体育館にいき,坂本九の上を向いて歩こう歌うと,避難所の子供たちが寄ってくるといった映像を見たことがあります.

 その時,そのアーティストから「歌を歌うことしかできない」というコメントがされたように記憶していますが,それを聞いた時,

 「歌を歌う前に,何か一つでもできることあったんじゃないの?」

 という強い違和感を感じました.
 確かに,あなたが歌の能力に秀でているならそれはそれで構わないし,避難所で歌を歌うことで,被災者の気持ちが和むのであれば,もっと,そのようなことをやってほしいと思う.
 でも,歌を歌うこと以外に「何もできねぇ」ことはないよね.
 被災者と一緒に瓦礫を片付けたり,救援物資を運搬したり,手を差し伸べられることはあったのではないのだろうか.
 私自身,豪雨災害があった際に,被災地にボランティアで行ったことはたった1回しかありませんので,何も偉そうなことは言えないのですが,それでも,あの映像とコメントからは,違和感しか感じませんでした.

 さらに,弁護士会に対する違和感.

 災害があると,被災者に対する無料相談等に備えて研修を行い,その旨を会員にMLで周知することが今回の震災でも行われています.
 前回の熊本地震についてもそうです.今回は,東京の弁護士が講師として研修をすることがM Lで流れてきましたが,それ以外に震災の関係で流れてきたメールがあったかどうかは覚えていません.

 確かに,被災者が避難生活を開始したのち,避難所での生活から,どこかの段階でこれまでと同様の生活に戻るべき行動に出るタイミングがあるはずで,その時に,罹災証明書等の制度について法律相談で助言することで,弁護士が役に立てることはあるかと思います.
 しかし,災害が発生した初期の段階で被災者が必要とするものは,少しでもストレスや負荷を感じずに,生命の安全を図り,生活を維持するための救援物資や支援の手であって,「法律」の無料相談ではないはずですよね.

 私が商工会の青年部に所属していた時,10年前の熊本地震がありました.
 商工会経由で救援物資を被災地に送る旨のアナウンスとともに,救援物資の寄付と募金のお願いが連絡事項として流れてきました(私は,その時は,必要な救援物資としてリストアップされた中から,紙おむつを買って,収集場所まで持っていったとように記憶しています.).

 弁護士会のMLの状況は前述のとおりです.
 被災者に対する無料相談に備えた研修のメールが流れてきたことしか確認していません.どこかの弁護士会長の談話が流れてきたかもしれませんが,震災関連の救援物資の寄付の依頼等については,目にした記憶がありません.あとは各弁護士の状況確認だけだったように記憶しています.

 避難所で歌を歌うことしかしなかったアーティストのように,弁護士は法律に関するアドバイスをすることしかできないのでしょうか?
 司法制度改革で,全国には,4万人をこえる弁護士が存在します.救援物資を募ったり,被災地でのボランティア活動を案内するなどしないのでしょうか?
 弁護士であっても,それぞれが1人の生身の人間としてできることはあるように思います.

 いつまで経っても,弁護士事務所は「敷居が高い」と言われるのは,こういうことだからではないでしょうか.

 そして最後に,高市さんに対する違和感というより怒り.
 あなたは何をしに被災地行ったんですか?
 間違いなく,動画を撮るためですよね.

 そもそも,総理大臣あるいは他の国務大臣クラスが,そういう被災地に入るものではないと私は考えています.
 なぜなら,総理大臣が国内外を問わず出張する場合,分単位でスケジュールが予定され,その各場面で大臣の送り出しをする担当者,同行する担当者,受け入れをする現地の担当者が必要とされ,過剰なまでに,多くの職員(主に公務員)によりスケジュール管理が行われ,労働力がそちらに取られてしまうからです.

 私が公務員をしていた頃,大臣がどこそこに出張するということで,霞が関のオフィス(5号館)にいながら,出張先の地での事細かな予定表を見た記憶があります.
 その予定表には,例えば,大臣がエレベーターに乗って移動する場合,乗る階と降りる回でどちらも担当者が配置され,乗る時刻と降りる時刻が予定表に書き込まれていたように記憶しています.

 大臣1人が移動するだけで,それだけ多くの労力が割かれることとなり,特に,災害による非常事態にある被災地からすれば,その受入れを求められるという過酷な対応が求められることになります.
 災害対策に追われながら,大臣の受け入れ態勢のための人手を出さなければならないということです.

 そのため,被災地の状況及び必要な支援内容等の把握については,大臣ではなく,むしろフットワークが軽いであろう課長以下ぐらいで対応すべきだと個人的には思っています.
 そして,そのレベルの職員が,実際に,被災地で寝泊まりして,自らも感じた不便さなどに基づき報告を行い,それを受けて,災害対策本部の大臣クラスで災害対策の検討を行う方が,より,被災者の必要とする支援を行うことができるはずです.
 しかも,これが震災でなく仮に戦争による被弾だったとしたら,高市さんは,弾の飛んでくる前線には行きませんよね.最も後ろの最も安全な場所で,前線からの報告を受けて,指揮を取ることしかしないはずですよね.

 だから,私は,被災地に大臣が訪問すること自体,「やっている感」を出す以外の何の目的もないものだと思っています.

 しかも,今回の高市さんは,動画の撮影付きです.
 取れ高が高いとでも思って被災地入りしたんですか?
 高市さんが中心(主役)の映像とともにBGMを流し,それを見た視聴者に何を伝えようとしたんですか?
 SNSの閲覧数を得たい,あるいは自分が総理大臣を辞める時のメモリアル映像を残すために訪問したんですか?

 この点,動画に対する批判に対し,政府からは,高市さんが避難施設に50数分滞在したと説明がされたりしていますし,歴代の総理大臣も動画を作成したということがあったようです.
 しかし,私からすれば,動画制作のいいわけにはならないと考えます.

 被災者は,避難所に24時間以上過ごすことを余儀なくされています.
 その中で,被災者は衣食住の各場面で困難に直面しているのに,高市さんが,たった50分そこら避難所に滞在して話を聞いただけで,その全てを理解し,各種支援の重要性とその優先順位を判断できるはずはありません.

 高市さんは,被災地で用を足すために,トイレに並ぶところから被災地の現状を経験することで,避難所の不便さなどを一つでも具体的な経験を通して理解したのでしょうか?
 たった50分そこら滞在しただけでは,暑い体育館等の避難所の中で,間仕切りもなく雑魚寝することなどを経験しなければ,プライバシーの確保や暑さ対策の重要性を肌感覚で実感することはできないはずです.

 そもそも,高市さんは,新聞報道等で見る限り,多くの関係者と面会をすることなく,資料を首相官邸に持ち込んで目を通して準備をするということを日常的に行なっているようですよね.
 そうだとすれば,自分で被災地を訪問することなく,実務担当者から有益な情報をリアルタイムで吸い上げ,そして,対策本部で検討して指示する方がよほど効率的かつ効果的かと思います.

 えっ?
 何?
 総理が直に被災者の話を聞くことが重要だ?

 本当にそう思うなら,何度も何度も足繁く被災地入りするはずですが,そういうことは過去にはありませんよね?
 なんなら,副首都構想関連法が成立したんだから,首相鑑定の機能を熊本の被災地に移してみればいいですよね.閣僚全員で熊本で行政府として執務をしたら良いじゃないですか.被災地と官邸を往復するだけで多数の人手が取られるのですから,被災地に滞在すれば.
 そうすれば,今回の災害対策としては,極めて迅速な対応ができるはずですよね.

 でも,そんなことしませんよね.
 だって,総理が被災地入りするのは,行政としての被災地支援の効率性や実効性を高めるためではなく,儀式でしかないからですよね.
 しかも,今回は,動画の撮影というおまけ付きです.過去にも同様に動画が撮影されたことはあったようですが,今回の動画は,流石に違和感以上の感覚が込み上げてきますよね.

 高市さんとしては,このような姿がメディアで流れることで,国民が高市さんのことを頑張っていると評価してくれると思うんでしょうか?
 そうではなく,被災地入りを利用して自分ファーストの動画撮影をしたとしても,選挙の頃には国民は忘れているはずだから批判は気にしないお考えなんでしょうか?

 いずれの場合っであったとしても,国民は確実になめられています.
 そして,被災者(災害)は,利用されただけでしかありません.

 私にはそう感じられてなりません.

「責任」ある政治とは

 アメリカから攻撃を受けたイランは,主にアメリカ軍基地に向けてだったとは思いますが,周辺諸国を攻撃しました.
 しかし,それを受けた各国は,ミサイルを迎撃するなど,自衛の範囲で防衛を行うことを超えて,アメリカとともに戦争に参加することには至っていません.
 もし同じことが,沖縄をはじめとする日本国内のアメリカ軍基地に対して行われた時,政府は,どのような判断をするんでしょうか.

 この国の政府・政治家に,責任ある判断・決断ができるんでしょうか?

 高市さんは,食料品に対する消費税を1%とすることを表明しました.これについても,「責任ある積極財政」の一部なのかセットなのか,そんな位置付けにはなるんだと思います.
 しかし,それに代わる財源が見つかっていないことからすれば,消費税を1%にすることは政府・政治家として「責任」ある判断なのでしょうか?

 高市さんは,消費税減税が自民党の「公約」であったということを述べていますが,そもそも,消費税減税は,先の衆議院選挙で野党が公約として掲げたところ,争点を潰すために自民党もこれを公約に掲げたものだったと記憶しています.
 そうだとすると,この公約実現を求めて,有権者が自民党に投票したものと理解することはできません.なぜなら,政党を選ぶ際の基準という意味での「争点」ではなかったからです.
 しかも,先の衆議院選挙では,高市さんの人柄に人気が集中するとともに,SNS対策が功を奏して自民党が大勝しただけであって,この公約を理由に,自民党が多数の議席を獲得したものではありません.

 そのため,政府・自民党は,財源が見つからない以上,このまま公約を実施することのほうが無責任であることを国民に説明をして,公約違反について釈明をするとともに,低所得者への給付などの代替手段をとることの方が,自らを「国民政党」と名乗る政党としての責任ある判断ではないかと思います.

 上述した戦争に参加しなかった湾岸諸国の各国で,経済対策等を含め,どのような政治情勢にあるのかよくは知りません.
 しかし,自国の領土にミサイルを撃ち込まれながらも,戦争に加担しないという判断に至った根底には,政治家が,一時的な国民感情に対するポピュリズム的な判断をすることなく,客観的かつ長期的な視点で,決断をしたものだと理解できます.

 財源がないことをわかっていながらも消費税減税に突き進む今の政府には,客観的・長期的な視点は全くなく,全てにおいて「責任」ある政治判断が期待できないように思えます.
 今の政府では,将来,この湾岸諸国と同じような事態に直面した場合,威勢の良い言葉だけを言い放ち,議論もなく,あっさりと戦争への参加や核の保有を決めてしまいそうに思えてなりません.

コストの安い仕組み

 新聞で,皇室典範改正とともに天皇制についての記事(社説)がありました.
 その筆者は,通常の法律は,それを制定する目的があり,そのための手段として立法されるものであるはずなのに,天皇制を維持することの目的というのが語られることなく,その制度維持を前提とした皇室典範の改正がされたという趣旨のことを書いていました.
 その中で,その筆者は,かつて役所の方々に天皇制の目的について尋ねたところ,とある方から

「コストの安い仕組み」

 という回答が返ってきたことがあったということです.
 どのような意味かというと,天皇をはじめとする皇族が,被災地の訪問などをすることで,一応,国民を落ち着かせることに役立ち,それにより,国を治めやすくなるということのようです.

 例えば,大地震が生じ,その甚大な被害はともかくとして,国や自治体による救助等が遅れ,救援物資等も不十分なままで,長引く被災生活に対し国民が不満を抱き,国の対応に苛立ちや怒りを覚えたような場合です.
 仮にそのような事態が生じ,国民の不満が高まり暴動等が生じてもおかしくない状況に至ったとしても,天皇・皇族が被災地を見舞うことで,被災者らの不満が和らぎ,暴動等が生じるリスクが低減されるということです.
 天皇・皇族に,その生活費等を国の予算から与えることで,そのような統治に資する効果が得られるのであれば,コスパに優れるという考え方のようです.

 このように考えると,天皇及び皇室という制度は,動物園又はサーカスであり,天皇及び皇族は,そこで飼育され,あるいは曲芸をする動物と同じような立場ないし位置付けになってしまいませんか?

 例えば,年始や天皇誕生日に行われる一般参賀という行事が行われます.天皇をはじめとする皇族が,ガラス越しに,集まった国民に対して手を振って応えるアレです.
 集まった国民が天皇に対して敬意を示すかのように手に持った国旗をパタパタと振り,天皇等が,それに応えるかのように,国民に対して手を振ります.
 この時,皇族の方々は,集まった国民よりもかなり高い位置から手を振りますので,(あまり良い表現が思いつかないのですが)一見すれば「殿上人」と「下々の民」という関係性をイメージしてしまいがちです.

 しかし,実際は,逆ですよね.

 男性の皇族と結婚された女性については,一応,自らの意思(と覚悟)で皇族となりますが,その他の多くの皇族は,自らの意思によらず,生まれながらにして皇族として生きることを余儀なくされます(女性の皇族については,結婚で皇族を離脱することができるようですが,「結婚」というミッションをクリアしないと離脱が認められないことには変わりありません.自分の意思一つで可能とはならないことに変わりありません.).

 そして,一般参賀などで集まった国民に対し,「なんで皇族に生まれたという理由だけでこんなことを」という思考を停止して,笑顔で手を振ってこれに応えなければなりません.
 さらには,男性の皇族と結婚されて皇族となった女性は,「男性」の子を出産するという大役を果たさなければなりません(今回の皇室典範の改正がそのことを顕著に示しています.).
 そうすると,失礼な言い方ではありますが,皇族というものは,動物園の動物が繁殖させられ,サーカスの動物が「曲芸」をさせられているのと同じ枠組み・位置付けが可能であると思えてなりません.
 つまり,生活費は与えられるが,「人」としての自由(人権)を制約され,国というシステムから与えられた役割を果たさなければならないということです.

 おそらく,政治家はそこまで考えていないと思います.
 右寄りの団体やそれに親和性のある国民層からの票を集めたいということしか頭にないのだろうと思います.
 さらに,これが役人であれば,上記のような,一応の理屈をつけて,問題を先送りする(自らの世代でこれを解決するようなことはしない.だって責任問題になるから)という発想にしか至らず,それ以上のことまでは考えないのだと思います.
 そして,多くの国民もそうだろうと思います.

 そのため,私がこのようなことを書けば,多くの方は,天皇や皇族に対する侮辱だとか,失敬だとか,これがSNSであれば炎上するだけでなく,場合によっては脅迫されたとしてもおかしくないかもしれません(「動物園」「サーカス」だけが切り取られてしまうかもしれません.).
 確かに,生まれながらにして自由を奪われながらも,その役割を果たそうという天皇や皇族の姿に対して敬意を払うべきだという考え方は成り立つとは思います.
 しかし,私は天皇や皇族自身を蔑もうという気は,一切ありません.
 批判されるべきは,天皇制というシステムと,それを政治的(あるいは私的な目的:今回の皇室典範の改正がそうです)に利用しようとする政治家だと述べているものです.
 さらに,天皇や皇族は,国民から崇め奉ることを望んでいるとは思えません.
 むしろ,皇族という枠組みに基礎付けられた天皇制という政治(というより宗教)を,終わらせる方向に国民の意識や政治家の議論が進むことを望んでいるのではないでしょうか.

 最初の天皇から2600年続いたかどうか知りません.
 仮にそうだとしても,皇族に限らず,今を生きるすべての人間には祖先がいて,それを辿れば,同じだけの時間を遡ることはできるはずです.
 歴史的な価値はあるかもしれないとしても,政治的に特別に扱わなければならない絶対的な理由があるとはいえません.
 「皇統の伝統と歴史を前に謙虚でありたい?」
 生身の人間を前に謙虚でありたいのであれば,悪しき伝統は辞める方向で政治家は汗をかくべきではないでしょうか.
 「コストの安い仕組み」という理由で,これを続けることが許されることにはならないはずです.

政治家の狙い

 男尊女卑を体現したような皇室典範の改正とその議論の経過,政治的表現を規制する国旗損壊罪の成立,さらには再審規定の改正と,よくもやってくれたよねという感じです.

 そんなことだと,反対に,国旗を損壊して抗議の意思を示したくなりませんか?

 これから,この国において,どこかで誰かが国旗を損壊したとして国旗損壊罪違反として検挙され,刑事訴訟手続の中で,国旗損壊罪の憲法適合性が判断されることになると思います.アメリカでは同様の法律がすでに違憲とされています.

 そこで,どこかの誰かに任せることなく,自分でやってみようかなとも考えましたが,仕事がら,逮捕されることの不利益についてはよく理解しています.
 そうすると,現実的にどうしたもんだろうかと,躊躇してしまいます.

 これがまさに政治家の狙いですよね.

 そこで,AIに頼んで,一見すると日本国旗のように見えながら,よく見ると日本国旗ではないものを作ってもらいました.
 日本国旗の代わりに,これを損壊して抗議の意思を表示してはどうかと考えたところですが,いかがでしょうか?

 AIが言うには,他にも色々と候補があったようですが,シンプルさを理由にこれを作ったという説明でした.
 これであれば,国旗損壊罪の国旗にはあたりません.
 現時点では犯罪は成立しません.

 しかし,この法律を作った方々は,どちらかというと,このような思想や政治的な意見を持ち,それを表示することに不快を感じることを理由に,国旗損壊罪の立法に至ったはずです.
 議員立法の提案者である維新の会の議員が答弁したように,「法案成立を契機に国民の自国への帰属意識が高まり,愛国心も醸成されていく」ことで,国民に対し,施政者のやることを盲目的に追従させようという魂胆があるはずです.

 そうなると,今のような政治情勢が続けば,そう遠くない将来においては,このようなパロディについても国旗損壊罪が成立するといって,取締りの対象となる日が来るかもしれません.
 政治的な意見の表明を取り締るのが目的なわけですから.
 その時は,この国が日本という独立した国家としての体制を維持していたとしても,近隣国に併合され,その国の日本自治区として統治される場合とあまり異ならないような気がします.

秘書と陳述書を国会へ

 高市(首相)さんが,他の候補者の中傷動画の制作を依頼したとかしなかったとかについて,秘書の陳述書を提出して答弁に代えたいという趣旨の発言をされてから,いまだに陳述書が国会に提出されていないようです.

 ところで,高市さんは,陳述書を出すことで
 「あらかじめ陳述を提出し、質疑者にも国民にも全体像を読んでいただくことで理解が深まると考えた」
 ということのようですが,この言い方からすると,自分に対する質疑の準備のために陳述書を提出するという意味のようです.

 陳述書の提出は当然として,秘書を,証人として国会に呼ばないのでしょうか?

 そもそも,陳述書というのは,民事裁判の場において,当事者や証人が一人称で語ったように事実等を記載した文書のことを言います.
 例えば,
 「私は,信号待ちのため,ブレーキペダルを踏んだまま停止線の前で停車していました.対面する信号が赤から青に変わったので,ブレーキペダルからそっと足を離そうとした時,後方からの強い衝撃を感じました.」
 といったことを記載したものです.
 そして,内容の真実性を保証する意味で,陳述者の署名押印がされます.
 なお,刑事事件では,警察が被疑者(容疑者)等から話を聞いて同様の一人称の文書を作成しますが,こちらは「供述調書」と呼ばれています.

 裁判では,陳述書も供述調書も,いずれについても証拠として扱われるものですが,基本的に,その内容を述べ,署名押印した人が,法廷で証言(供述)をすることが予定されています.
 理由は,陳述書や供述調書は,いくらでも作文ができるからです.
 実際,陳述書に,自分にとって不利なことを記載しませんよね.ですから,陳述書は,証拠として扱われますが,基本的にそれだけで信用してもらえることはありません.

 そうすると,陳述書を作成した人が,証人尋問を受けて法廷で供述するのであれば,そもそも,陳述書を作成する必要はないようにも思えます.

 確かに,極論すれば陳述書は証拠としては不要ですが,陳述書を作成して,その証人等が,どのようなことを法廷で供述するかをあらかじめ開示することで,尋問者(質問者)が,証人等に対してどのような質問をするか,あらかじめ準備することができるようになります.
 それにより,本当にその供述を信用して良いのかが判断されやすくなります.

 陳述書を作成することの本来の意味からすれば,高市さんの説明はズレています.

 高市さんの説明は,陳述書を提出して,議員に,自分に対する質問のための準備をしてもらうという意味のことが述べられています.おそらく,陳述書の本来的な使用目的を理解していないからです.

 高市さんへの質問のために秘書の陳述書を用意したとして,その中で「中傷動画の依頼のための打ち合わせをしました」と述べていたらどうなるでしょうか?
 おそらく,高市さんは,野党議員からその点について質問をされても,「秘書は嘘をついている」と答弁するはずです(もちろん,そんな陳述書が提出されるはずはありませんが.).
 そうなると,高市さんが陳述書の内容を認めない限り,国会の質疑は単なる水掛け論にしかなりません.秘書の陳述書の内容を高市さんに問いただしても意味はありません.秘書が嘘をついているのかいないのかは,秘書を呼んで問いたださない限り明らかにならないはずです.

 国会で「中傷動画の依頼のための打ち合わせはしたことはありません」という陳述書を作成した秘書に対して,様々な証拠を示しながら質問することで,その秘書の述べることが信用できるかが判断され,真実に迫ることが可能となるはずです.
 仮に陳述書と矛盾するようなことを述べるようであれば,嘘をついているか,嘘をついていないとしても,記憶は曖昧だということが明らかになるはずです.

 そのような訳で,高市さんが秘書の陳述書を国会に提出するということは,当然,秘書を証人として国会へ呼ぶことも,セットとして行われるべきです.

 国会を延長するなら,是非,秘書を呼びましょう.

娘を持つ父親として

 天皇が,何日か前に,皇室典範の改正案についてコメントをしたと記憶しています.
 その内容は,天皇が政治的行為をしてはならないということへ最大限配慮した上での,非常に抽象的な内容(表現)だとその時は理解しました.
 もちろん,ネット上には,「陛下にそんなことを言わせるなんて」と言ったコメントもあったように記憶していますが,その時の私の認識では,それを超えて,政治的な影響を与えるものではないので憲法上の問題としてはセーフだろうと,憲法を学んだ立場の人間として理解しました.

 しかし,その発言には,男尊女卑とも言える男系男子の皇位を優先する旧宮家からの養子案等を提案する政治家に対して,1人の父親としての抗議の意思が込められていたのではないかと,最近では理解するようになりました.

 まず,私ごとで恐縮ですが,娘2人の父親です.
 上の子は,すでに成人しましたが,小学校高学年か中学生の頃に,その子に対して,このようなことを言ったことがあります.
 「バカな男と付き合って辛い思いをしても,それは自業自得だ.
  でもな,『女のくせに』とか『女なんだから』と言って下に見るやつと付き合う
  ことは絶対に許さん」

 これまで,上の子から,誰と付き合っているとか報告を受けたことがあるわけではありませんので,この辺の事情は分かりませんが,自分の子どもが女性であるという偶然の出来事により,人としての可能性を否定され,不遇に扱われる理由はないはずです.

 自民党と日本維新の会,そして政府の提案する皇室典範の改正案は,端的にいえば,男系男子のみが天皇になる資格を与えられるべきだとするものであり,明らかに,男尊女卑を前提とするものです.
 この男系男子による皇位継承について歴史的な事実は「重い」とか言っていますが,女性の天皇が存在したことも過去にはあり,それは確固たる事実です.
 何が「重い」のでしょうか?
 このような政治の状況に対して違和感を覚えるの私だけではないはずですが,ただ,そのような感覚は,どこにでもいる国民の1人としての感覚にしか過ぎないはずです.

 しかし,これが現在の天皇であれば,話は別ですよね.

 だって,このような皇室典範の改正案は,娘を子に持つ現役の天皇からすれば,その唯一の子の人格を直接的に否定することに他ならないものだからです.

 私自身,天皇や皇族は,基本的には,天皇及び皇族という制度を,本音ではやめたいと思っていると想像していました.
 ところが,最近,新聞の下の方にある週刊誌の広告を見ていた際,現在の天皇が,子に対して,天皇としての教育をしていることを想起させる見出しがあり,やや意外に感じられました.
 しかし,この見出しがもし真実だとすれば,現役の天皇は,皇室という生まれながらに背負った宿命(自らの努力で変えられる運命ではありません)を理解した上で,(このように思っているかどうかは知りませんが)自分と同様に,それから逃れられないであろう自分の子に対して,「天皇」として生きることの意味を教え,その地位から逃れられない人生であっても,その人生を実りあるものとするために,父親として精一杯の教育を施しているのだろうと想像されるところです.

 そのような中で,国会議員の多数による「国民の総意」という擬制の名のもとで,天皇の子が,女性であるという一事をもって,天皇になったら結婚が困難になるとか,男子を出産することを期待されるとか,ご本人からすれば(本来的には)余計なことを政治家が触れ回っているのが昨今の状況です.
 私からすれば,皇族数の確保が政治家の仕事・役割の一つなら,皇族の結婚や出産という偶然の(少なくとも政治的ではない純粋な生の人間的な営みによる)出来事に左右されない天皇制を作ることが,政治家に与えられた本来的な役割だと思います.
 もちろん,旧宮家からの養子というのはそのような目的があるのかもしれませんが,男尊女卑(男系男子による皇位継承)を前提とする以上,アウトです.

 私は,幼稚園児の頃,とある園友とともに,
 「大きくなったら天皇になる」
 と言っていたことがありますが,まぁ,これが実現することはありません.そのため,私の子が,第三者(国民)から男子を出産することを望まれたり,私が男の子を養子に迎えることはありません.
 でも,同じ娘を持つ父親として,皇室典範の改正に対して,自らの立場を踏まえ,政治的なメッセージを纏うことのない言葉で意見を述べた天皇の心境は,おそらく,娘から紹介された彼氏が,「女のくせに」と平気で述べる場面を目撃するや否や,私が感じるであろうその彼を殴りたくなるほどの衝動に,劣ることはないものと察します.

 私自身,天皇制には消極的ですし,「陛下」と呼ぶ気もありません.
 しかし,現状の皇室典範改正案の内容に関し,同じ,娘を子に持つ父親として,現役の天皇に対して,最大限の共感をこの「ひとりごと」で表したいと思います.

非常に性格が悪いと思う

 私は非常に性格が良くない方ですが,ここでは,私のことではなく,国旗の損壊等の処罰に関する法律(国旗損壊罪)の成立を推進する政治家についてです.

 なぜそう思ったかというと,多分,国内の行為だけが処罰の対象なんですよね.

 刑法には,国内での行為のみならず,国外での行為を罰する旨の規定もありますが,国旗損壊罪は,刑法の特別法として,独立した法案が衆議院には提出されています.
 そして,そこには,国外での行為,更には国外での国民以外の行為を罰する旨の規定はありません.そのため,外国で,外国人が行う場合は罰せられません.
 さらに,規定を見る限りでは,国民が国外でこれを行っても処罰の対象になるような規定にはなっていないようです(今後の議論や具体的な条文によっては変わってくるかもしれません.).

 ところで,国旗損壊罪の創設を推進する方々は,どちらかというと右寄りという方々が多いはずですよね.
 そうすると,彼らは,国民に限らず,過去に日本が植民地支配したといわれている外国の方などが,日本の戦争責任等を求め日本国旗を毀損する行為に及んだときに,それを見て不快に感じるものと想像します.
 そのため,本当は,そのような行為に及んだ方の所属する国に対して抗議し,さらには,可能であれば処罰したいと考えるのではないでしょうか.

 しかし,処罰の範囲・対象は国内だけです.
 これはどのように理解したらいいんでしょうか?
 外交上難しいということが理由なんでしょうか?

 もし仮にそう考えれば,この国旗損壊罪は,この国の国土にいる間に,国民であるか否かを問わず,国旗を損壊すると処罰の対象となるということを意味します.
 つまり,その意味を考えれば,国内にいる限りは,国旗を象徴とする「国」に対する忠誠を誓うことを求めているということになりますよね.
 そうすると,積極的には表現の自由の制限であるのみならず,消極的には,内心の自由にまで踏み込んできていることになりませんか?
 だって,国旗を損壊しない限り,法律を守ることで,国旗に対する肯定的な意思を表現していることになってしまいませんか?

 そうではなく,本当は,海外で行われる同様の行為についても「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」であれば処罰したいというのが,この法案の成立を推進する政治家の本音であるはずです.
 そうだとすれば,国内という政治家自らの権力が及ぶ範囲(国土)において,国民又は国内に住む外国人に対して,その優位な立場で法律を制定し,自分たちの不快に思う行為(国旗の損壊行為)を処罰の対象とするということは,価値観の押し付けであるとともに,弱いものいじめではないでしょうか.

 私の場合,労働事件の依頼を受けることが多く,使用者側で事件を受ける時の社長の様子からは,「飼い犬(従業員)に手を噛まれた」という感覚を抱いているように見受けられることがよくあります.

 政治家が創設しようとする国旗損壊罪は,結局,国民を「飼い犬」ぐらいにしか考えておらず,その「飼い犬」たる国民が国旗を損壊して自分たちの権利を主張することが我慢ならないということなんですよね.
 加えていえば,国民は,日本が嫌になったとしても,そう簡単に海外に移住することができるものではありません.国旗損壊罪の立法は,それができないことを分かった上でのことですよね.

 そのような感覚・考えが立法の動機であると推測される以上,彼らは,非常に性格が悪いと思います.