家族の一体感 = ドグマ?

 選択的夫婦別姓について,賛成派と反対派がいますが,反対派がいまだに

「家族の一体性が損なわれる」

ということを理由に挙げることが理解できません.

 とある時の総理大臣が「女性ならではの感性」

と述べて,実際にそんなものがあるのかないのかという批判を浴びたように,「家族の一体感」というものも,実際に存在するといえるのでしょうか?

 確かに,私にも家族がいます.
 しかし,カミさんであっても,子どもに対しても,「中野〇〇」という呼び方はしません.当然ですよね.
 名で呼ぶことがほとんどで,改めて家族みんなが同一の「姓」であることを自覚するように,「中野〇〇」なんて呼び方はしません.諸外国と同じようにファーストネームで呼ぶだけですよね.

 また,我が家にも,一応の家訓
  ・親より先に死ぬな
  ・保証人にはなるな
  ・乗り物は自分で買え
はありますが,我が家独自のものでは決してないはずです.
 「親より先に死ぬな」はほぼ人類共通の命題だと思いますし,さらにいえば「ほ保証人〜」と「乗り物は〜」は,実は,母方の祖母からの訓示でして,「中野」の家訓ではありません.

 そうすると,結局のところ,家族以外の人間(近隣住民),地方自治体,国が国民(我が家の家族)を把握するにあたり,一つの戸籍に一つの「姓」があって,それでまとめて取り扱うという便宜的なものでしかないというのが実際の理由でしかないように思います.
 つまり,精神ないし文化的な意味での「家族の一体感」ということを理由に「姓」が用いられているのではなく,国民を把握する技術的な方法という意味しかないということです.

 その反面,各国民にひとつずつマイナンバーが付与され,家庭裁判所で氏名の変更の許可を受けることはできても,変更することのできない番号で管理されるようになったことからすれば,「家族の一体感」という,得体の知れないもののために,夫婦同姓を強制する必要があるというのは,国民を把握する技術的な方法という意味でも理由がないように思います.

 そのため,結局のところ,「家族の一体感」という理由は抽象論であり,「日本」という名の宗教におけるドグマでしかありませんよね.
 なんとかならないものですかね.