物の価値に対する考え方

 前回の投稿で,高級腕時計について触れましたので,私の「物」に対する価値観について少しだけ述べます.
 結論としては,機能性を第一に重視するということです.
 つまり,私にどれだけの収入があり,お金を持て余したとしても,高級腕時計は買わないだろうということです.

 以前からもそうだったかというと,はっきりと自覚していたわけではありませんが,そのような感覚を持っていたことは事実です.このことをはっきりと自覚するようになったのは,次のような話を聞いてからです.

 まず,想像して欲しいことがあります.
 それは,あなたが,ベンツ(車)とヴィトンのバッグ(鞄)を購入したいと考えた時に,どちらも購入するだけの予算がない場合,どうするかということです.

 日本人であれば,その多くの方が,車はベンツではなく,高級車という部類に含まれるのであれば,それよりもランクを少し下げたものでも良いと考えるのではないでしょうか.そして,その分の予算をバッグに充てて,バッグについてはヴィトンの本物を購入するだろうということです.
 そのことを聞いた時,私自身,そう言われれば確かにそうだなと思いました.

 しかし,とある国の方は,車については絶対にベンツでないとダメで,反対に,バッグについては,極端な話,ヴィトンの偽物でも良いという選択をするそうです.
 その理由は,車というのは,安全に移動することが目的である以上,安全性のためにどれだけのお金を払っても高いということはないからです.
 その反面,鞄は,物を収納してそれが落ちなければ良いというのが鞄の機能として求められることなので,それが満たされれば良いからということでした.つまり,誤解を恐れずに言えば,ヴィトンのマークが本物か偽物か,鞄にとってはどうでも良いということです.

 このような考え方にたてば,時計は,時刻を正確に刻んでくれればそれで良いのであって,それ以上にお金をかける必要はないという判断に至りやすくなります.
 もちろん,電波時計のように,自動的にズレを補正したり,あるいは,太陽光による充電機能により電池交換が不要となることなどがあれば,その物の価値を高めることに繋がります.そのような場合には,その価値に見合ったお金支払うことは十分に意味があるといえます.
 また,腕につけるという性質上,それに伴う不具合(金属アレルギーや汗をかいた場合のメンテナンスのしやすさ等)を軽減するということがあれば,その点は価値があると評価して良いと思います.

 そのため,高級腕時計の「高級」が「ブランド名」だけによる限りは,私は高級腕時計は購入しないと思います.

 もちろん,なんらかの考えのもと,高級腕時計を購入する方を否定するつもりはありませんし,高級腕時計の「物」としての価値を否定するつもりもありません.
 おそらく,時刻の正確性も高く,付け心地も良いだろうと思いますし,さらには,所有感を満たしてくれる点では,お金をかけるだけの価値があるのだろうとは思います.
 また,私の持つ価値観が,どのような物(例えば,デザイン性が重視される場合)あるいはどのような場面(例えば,愛着等がある場合)においても絶対ではないとは思います.

 しかし,「物」に対するこのような考え方は,モノ作りをする方,そして,出来上がった製品に対する素直な評価につながるのだと思います.「物」だけでなく,役務(サービス)などについても,同様な価値観を持って評価をすることが公正ではないかとも思います.
 何らかの場合の行動ないし判断指針としては有用ではないかと思います.

 なお,私が現在使用している腕時計は,とある海外のメーカーのもので,15年以上使用しています.時計機能だけのシンプルなもので,華美さや高級感はありませんが,そのシンプルさがデザインにも反映されていて見た目も気に入っています.
 また,時計本体の厚みが6ミリ程度ということで,腕につけながら感じる重さも,動作等に伴う違和感も少ないため,同じメーカーで同じような機種のものを使い続けています.
 機能性という点だけを考えて,アップルウォッチの購入を考えたこともありますが,いまだに購入するには至っていません.もし,現在使用している時計よりも高額なものを購入することになれば,アップルウォッチの方が,高級腕時計よりも先に候補に上がると思いますが,やはり,今の時計を使い続けるだろうと思います.
 そのような意味では,物に対する愛着等の念を否定するものではありません.

高級腕時計

 高級腕時計が高値で取引され,更には,これに関連する詐欺,強盗が起きているという記事に接しましたので,このことについて少しだけ.
 結論としては,私が時計職人であれば,時計の価値を評価してもらえることは喜ばしいと思えても,このような状況を望むことはないだろうと思います.そして,これらの時計が,本当に腕時計を愛する方のもとで,より長く使い続けてもらえることを望みます。

 私が好きな自動車メーカーの一つにスズキ自動車があります.
 同社のものづくりにおいて,良いものをより長くお客様に使ってもらえるようにという考え方があるようです.
 私としても,良いものを長く使いたいという考えが強く,そのため,物を選ぶときには,「良いもの」の基準として機能性を重視した上で,長く使うことができるものを選ぶようにしています.

 しかしながら,この考え方(特に,「より長く」という点)は,製造企業としてはあまり利益にならない考え方です.
 高度経済成長期のように,作れば作っただけ物が売れるという状態が製造企業にとっては利益になりますが,作った製品が長く使われ,買い替えられることがなければ,いずれは,新たに作った物が売れない状況に至ってしまいます.
 この点で,スマートフォンの製造企業を批判するわけではありませんが,2年ごとに新機種が発表さ買い替えを促す状況を見れば,「良いものを長く」ということとは対極的であることがよく理解できると思います(もちろん,そこには機能面での進化が伴うため,一概に批判できることではありませんが,一般人からすれば,そこまでの機能がなくとも十分だという場合が多いように思われます.).

 そうだとすれば,「良いものをより長く」という考え方で作られる製品というのは,それが愛されて長く使われるようにという強い思いが込められているのだと思いますし,だからこそ,「物」それ自体が高く評価され,それに見合った価値が与えられるのだと思います.
 おそらく,高級腕時計と言われる時計を作る職人も,同様に「良いものをより長く」という考えで一つ一つの製品を作ったのではないかと思います.

 そのため,時計職人としては,その時計が高く評価され世代を超えて長く愛用され,それとともに価値が上がること自体は歓迎しても,単に資産運用であったり,投機の対象として取引きがされ値段が釣り上がること自体は望んではないだろうと思います.
 値段だけは上がり続けながらも,時計として使ってもらうことなく(美術品のような観賞用にするならまだ理解できますが),更には強盗や詐欺といった犯罪の対象となることで,本当にそれを時計として使いたい人の元には届けられることがないという状況は,時計の側からしても,それを作った職人としても本望ではないはずです.

 私自身,時計にお金をかけることはしませんので,高級腕時計を購入することもそれを使用することもまずありません.そのため,高級腕時計の愛好家等に対してその価値観を共有することはありませんが,高級腕時計をめぐるマネーゲームに対して嫌悪感を有するのであれば,その点では,大いに共感できるように思います.

 時計職人の技術とそれによって生み出された腕時計が適正に評価され,それらを愛する方々が,これを適正な価格で購入できる状況に戻ることを祈りたいと思います.
 

「おかえり?」「いらっしゃい?」

 子供に対してどちらを使うべきか?

 子供(第1子)は,今年3月に高校を卒業し,ワーキングホリデーを利用して,ニュージーランドに行っています.
 おそらく,来年,日本に戻ってくるはずです.

 ここで,「はず」というのは,私としては,そのまま世界を旅してきて当分帰ってこなくても良いと思っていることを意味します.要するに,自由にやってほしいという意味です.

 ところで,そうではあっても,いずれは日本に戻ってくるでしょう.そこで,その場合には,私(両親)の元に少なくとも一度は戻ってくることになると思いますが,その場合

 「おかえり」
 「いらっしゃい」

 のどちらをいうべきなのか,少し考えてしまいました.

 私自身,子供には,親の支配から逃れて自由に生きてほしいと願っています.
 そう考えれば,まだ19歳(になる)という年齢ではありますが,親から自立したという以上は,それを後押しするという意味でも「いらっしゃい」となるように思えます.
 つまり,あくまでも,自分の人生の旅の途中で,両親の元に立ち寄ったという場合である以上,「おかえり」ではなく「いらっしゃい」になるのかなということです.

 他方で,どれだけ自由に生きようとも,どこかに自己帰属を見出したいというのが人間だと考えれば,親(ないしその存在)がそのような場所にあたるとも言えます.
 そして,その場合,子供においても,どこかに帰る場所があるということが,より自由に生きていくことにつながるようにも思われますので,そうであれば「いらっしゃい」ではなく「おかえり」と言ってあげる方が良いようにも思います.

 自分の場合は,学生の頃や社会に出て間もない頃は,実家に戻れば「おかえり」と言われることが自然だったように記憶していますが,最近では,「いらっしゃい」に変わっています.
 いつから「おかえり」が「いらっしゃい」に変わったのかは覚えていませんが,確かにどこかの時点で変わっています.

 そうすると,私の子供に対しても,とりあえずは,「おかえり」と出迎えつつ,ある時期になると自然に「いらっしゃい」に変わるはずだから,こんなことを意識することなく自然にしておけば良いのかもしれないとも思わないわけではありません.

 どうすべきなのか.
 いちいち,こんなことを気にする必要はないとも思われるかもしれませんが,いずれ,どちらにするか決断を迫られる時は確実に訪れるはずですので,それまで,悩んでみたいと思います.

性風俗業にも持続化給付金を!

 コロナ禍の際,多くの中小規模事業場に対して,持続化給付金が支給されました.しかし,風営法上の性風俗産業に対しては,これを支給しないものとされています.
 現在,支給を申請しながらも不支給とされた性風俗産業の事業者等が,この不支給処分を争って訴訟をしています(私はこれには何も関わってはいません).
 ここでは,そこでの理由について,少し考えたいと思います.
 私の意見としては,不支給処分(あるいはそのような立法)は不当な差別として無効とし,給付すべきだというものです.

 裁判における国の主張は,性風俗業を「性を売り物とする本質的に不健全な営業とされ,社会一般の道徳観念にも反するものとされている」というもので,かなり露骨な表現を用いています.これに対して裁判所は,次のように述べています.

 「客から対価を得て一時の性的好奇心を満たし,又は性的好奇心をそそるためのサービスを提供するという性風俗関連特殊営業が備える特徴が多くの者が共有する性的道義観念とは相容れないという考え方がある」

 裁判所は,このような理由から,不支給とすることも不合理ではないと述べています.一見すると,「性を売り物とする本質的に不健全な営業」という表現は,否定し難いとも思われます.

 そもそも論として,性について,金銭等と対価的な価値を置くこと自体,私としては否定的です.そのような意味では,性風俗産業の存在それ自体に何の問題もないとは考えません.

 しかし,上記のような国の主張や裁判所の判断からすれば,「不健全」という言い方をしているものの,実際には特定の人に対する差別的な価値観に支えられているように思われます.
 つまり,そこでサービスを提供して収入を得ること(営業・事業)それ自体を,社会的に問題のあるものとして認識しているというだけでなく,そこで働く方(多くは女性だと思います)のことを社会的に低いものとみなす,そのような価値観に基づいているのではないかということです.
 そして,そのように考えに立ってしまえば,その先にある,不支給処分による効果,つまり収入が絶たれることにより生活が困窮し,人としての生命すら脅かされる事態が生じうるという現実にも目を向ける必要がなく,不支給処分を容認するという結論を導くことが容易になってしまいます.

 しかし,それで良いのでしょうか?

 裁判所の述べる,「不健全」という言葉は,よくよく考えれば,そのような実体があるかどうかも怪しい,抽象的な言葉上も問題だとも言えます.「考え方がある」というのはまさにそのことを示しています.法律上認められている事業でありながら,そのような抽象的な理由で差別することに理由があると言えるのでしょうか.

 そして,不支給処分による効果は,そこで収入を得て生計を立てて暮らしている人からすれば,生きていくことそれ自体を否定されるに等しいともいえます.そのような抽象的な理由だけではなく,さらに踏み込んで,そのようなことにも目を向けた上で,不支給処分とすることの是非が判断されるべきです.

 20年以上前に読んだ雑誌には,とある国の娼婦のことが載っていました.
 その方は,目が見えない方で,写真からみた感じでは,当時の私(20歳)からすれば,かなり年配の方のように見えました.
 記事の中で,彼女の1日について記載がされていましたが,仕事をして収入を得た後は,自分の食事と,町に住み着いた野良猫の餌とするために魚を買うのが日課だと書いてありました.
 その方は,目が見えない(全盲かどうかまでは分かりませんが,掲載されていた写真はどれも目を閉じていたものだったように記憶しています)ということもあり,年齢的なものもあり,また,その国のその地方の産業の状況などからしれ,おそらく,そのようにして生計を立てるしかないのだと思います.
 しかし,それにより得られた収入によって,その方は確かに生活をして,自分の人生を生きています.

 今回,給付金が不支給となった方々がこの場合と異なるかというとそうではないはずです.そこで得た収入で生計を立てています.
 性的なサービスの対価が発生する以上,「人」というものがお金で換算されてしまうという意味での不健全性はあるとしても,それが本人の生活費となり,子供の養育費となることを考えれば,それ自体に価値をつけることはできません.
 子供が必要十分あ養育と教育を受けて健全に成長し,人類の将来を担うことを考えれば,その価値はプライスレなはずです.そこには「不健全」などという評価があてはまることはありません.

 この点で,「援助交際」という言い方で未成年者による事実上の売買春が問題となった時期がありましたが(今でも同様なことはあるとは思いますが),そのことの何が問題かといえば,そこで得た収入が高級なブランド品の購入など,その人の生活に直ちに必要とは言い難いものに充てられていたことだと私は考えています.
 生活に困窮しているわけではなく,そのようにしてでも収入を得なければ学校に通えないというものでもなかったはずです.
 コロナ禍で,この事件の性風俗産業で働いている方の置かれていた立場とは大きく異なるはずです.このような場合があることをもって,不支給とする理由には当たりません.

 まして,性風俗産業は,客を食い物にして収益を上げているものではありません.違法薬物の販売やマルチ商法など,消費者を喰い物にするものや,暴力を背景に便益をを要求する反社会的組織とも大きく異なります.
 そのような意味での不健全性があるとも言えません(もちろん,人身売買の温床となりうることは否定しませんし,そのような意味での「不健全」性を内在するということであれば,大いに問題と考えますが,ここでの議論は,そのことは別問題です.).

 以上のような理由から,私としては,不支給処分については取り消されるべきだと考えるところです.

教育勅語と親孝行と私の考え

 一部の方々において,教育勅語は良いものだという意見があるようです.
 しかし,私は反対です.

 まず,教育勅語とは,明治神宮のHP(https://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.php)に「日本人にとって何が『大切なこと』なのかしを示された手本」と題して説明がされています.
 内容は別にして,明治天皇が発布したものです(上記HPでは「渙発された」と表現されています.).

 その内容は,親子関係(親孝行)のこと),兄弟のこと,夫婦仲のことなどが含まれています.また,当然ながら,国に対する態度(愛国心など)も含まれています.

 一見すれば,悪いことは書かれていないようにも思えます.
 しかし,教育勅語は,当時,国を統治する最高権力者たる天皇が,自らの支配する「国民(臣民)」の在り方を示したものである以上,国(国民)を支配するための手段という性格を拭い去ることはできません.
 そうであれば,内容がどのようなものであったとしても,「個人」が尊重されるべきとの私の考えからすれば,反対という立場にならざるを得ません.

 では,その内容についてはどうでしょうか.

 この点,教育勅語を良いものだという意見を有する方々の多くは,親孝行などを推奨するという内容を理由に,そのような意見を有するものと思われます.
 しかし,私の考えからすれば,これについてもとても危険な価値観を孕んでいるのではないかと思っています.その理由は,親孝行が推奨されるべきことかということに疑問を感じるからです(以下では,親孝行についてのみ述べていきます.).

 「親孝行」それ自体を否定する気はありません.しかし,そのような概念(考え方)が自分の外側に存在し,一定の価値(要するに,世の中で推奨されるべきことだという評価)を手にするに至った途端,そのような考えに到底至ることのできない方々にとっては,激しいほどの鋭さを持って痛みを与える恐れがあります.

 刑法が改正され,監護者による強制性交(刑法179条)が犯罪として明記されたように,親から喰い物とされてしまった子からすれば,そのようなことが安易に言えないことは容易に想像ができると思います.
 暴力の対象とされ,搾取の対象とされ,あるいはネグレクトなどの虐待を受け育った子らが,「血縁」という,自分では選ぶことのできな関係が存在することを理由に,無条件で「親孝行」を強いられるのは正義といえるのでしょうか.

 社会における大多数の中で,一定の価値観が幅を利かせて世の中に浸透する中で,それにより感じる痛みに対して声を上げることもできず,耐え忍んで生きている方は確実に存在します.

 誤解のないように繰り返しますが,私自身,「親孝行」を行うこと,それ自体を否定する気はありません.しかし,そのことを絶対的な意味で「人として行うべきこと」と評価する価値観が所与のものとされ,しかも,国の統治者・権力者から規範として示されることを肯定することは,やはり,私にはできません.

 ですから,教育勅語には反対です.

 なお,最後に,そんな私でも,親に対する感謝は必要だと思っています.
 それは,この世に生を与えてくれたということだけは,絶対的に否定することができないからです.
 そして,感謝の気持ちは,「孝行」という形だけでなく,それ以外の行動として示すことは可能なはずです.
 ですから,親に対する感謝を忘れなければ,親孝行はしなくていいと思っていますし,自分以外の誰かから強要されるべきものではないと思います.
 私自身,子供に対して親孝行をしてほしいとは思いませんし,絶対に求めることはしません.むしろ,人としての強さを身につけ,私(親)から自由になって生きてくれることを願っています.そうしてくれることが,私に対する一番の感謝の示し方だと思っています.
 

「自由」について

 「自由」というと,英語では,「free」と「liberty」がありますが,ここでは,私にとっての自由とその意味について少しだけ.

 この職業についてからではなく,ある程度の年齢に達してから以降,他の方々よりも,自分が「自由」や「平等」というものにとても敏感であることに気づきました.もちろん,この職業についたことで,そう感じる理由などを論理的に理解することができるようになったようにも思います.
 先日,これに関することで,役所に勤めていた時のことをふと思い出しました.

 霞が関に通勤するようになった2年目のことです.
 同じ島(机を前後向かい合わせて一つの塊になるように配置されもの)で私の向かいに座っていた方(別の係の方で,以下「Aさん」といいます.)から,「今後,昼休みの電話当番を決めましょう」という提案がなされました.
 この時,私はとても怒り,「そちらの係だけでやってください」と言い,これに応じることはありませんでした.

 そのように怒った理由は,「自由」が制約されるからです.

 昼休みである以上その時間を自由に利用して良いのですが,国民に対する全体の奉仕者たる公務員という立場からすれば,Aさんの提案はもっともなものとも思えます.
 ただ,それまでの経緯等が関係します.

 Aさんは,私が霞が関に通勤するようになった1年目から,同じ島で働くようになりました.彼の場合は,内部的な移動でその席に来ることになったものです.
 霞が関は不思議なところで,帰宅する時刻は極めて遅く,誰も定時に帰るようなことはしませんでした(今でもそうかは知りません).
 にもかかわらず,昼休みになると,その職員のほぼ全員が必ず,一斉に昼食をとりに庁舎外に出る又は庁舎内の食堂に行く,あるいは,地下のコンビニに昼食を買いに行くという行動をとります.当時の私にとっても,非常に不思議な光景でした.

 Aさんも同様で,その時は,Kさん・Sさんという方々が,必ずAさんを誘って食事に出掛けていました.そのため,昼休みになると,島には弁当を持参していた私だけが1人残った状態で,食事,あるいは食事後に歯磨きをしている最中でも,電話が鳴った時は無視するわけにもいかないので,電話に出ていました.
 この時の私の対応は,義務としてではなく,公務員という立場において,そうしなくとも誰からも咎められない状況であったにもかかわらず,いわゆる善意で行っていたものです.

 ところが,私が霞が関に来て2年目,年度末の人事異動によりKさんとSさんが他庁に移動となりこの職場を去ってしまいました.そのため,Aさんが昼食に誘われることがなくなり,Aさんが昼休みに離席することもなくなりました.Aさんは,毎日,庁舎に出入りする業者のお弁当を注文するようになり,KさんとSさんの代わりに異動してきた方々も,同じように弁当を注文していました.
 その結果,前年と異なり,私の座っている島には,Aさんと私以外の係員も含め,常時5人ほどが自席で昼休みを過ごすようになりました.

 そこで出されたのが,上記の提案でした.

 Aさんからすれば,昼休みに庁舎外に出かけることのない私であれば,当然のことのように提案を受け入れると思ったのかもしれません.彼にとっても,今後昼休みに庁舎外に出ることがないため,そのような義務を課されることで生じる不利益が大きくはないという考えだったのかもしれません.

 しかし,私からすれば,今まで,昼休みである以上その時間を自由に利用し,電話に出るかどうかも自由であることを前提に,「(食事などを中断して)電話に出る」という意思決定をしていたものです.1年間,善意で昼休み中に電話対応をしていただけです.
 ところが,Aさんの提案に従うこととなれば,それ以後,担当となる日については,それが義務になり,昼休みの自由な時間が制約されるということを意味します.
 自席で昼食を取ること,その際に鳴った電話に出ることすらも「自由」に行っていた私にとって,これを「義務」とされてしまうことにひどく抵抗感を覚えました.

 上記のような経緯からすれば,Aさんが,食事に誘ってくれる同僚がいなくなったことを契機にそのような提案をしてきたというその動機があったことは明白です.そのことに対して,私が嫌悪感を抱いたことも事実です.
 しかし,そのような嫌悪感だけで,私がこれを拒否したものではありませんし,このことが,そうしたことの本質的な理由ではありません.

 私にとって「自由」であることが重要であり,その自由を前提に,どのように物事を判断し,どのような行動を取るかが,自分の生き方において重要だと考えています.
 そのため,自分がそのような環境にいることが,自分の人生において尊いことであり,価値があることだと思っています.

 おそらく,私が1年目に霞が関に来たとき,最初からそのような電話当番という制度があり,それが割り当てられるのであれば,当然のこととしてこれに従ったものと思います.あるいは,Aさんがそのような提案をしなくとも,2年目以降も,善意で電話を取り続けたのだろうとも思います.

 しかし,その時感じた抵抗感,そしてAさんの提案を拒否したことは,自分にとってのこのような考え方に根付いているものだと思います.
 あまり,ご理解や共感を得られないことかもしれませんが,私の考える「自由」がどのようなものかといえば,以上のことが,その一部を示してくれるものです.

 私のことを,「面倒臭いやつ」だと思われるかもしれませんが,ご関心がある方は,まずは,ご相談の予約からお願いします.

オリンピック

 私だけでしょうか,「もうやめたらいい」と思っています.

 私自身,「オリンピック」という制度を疑うことなく,それが正しいものとして教えられて育ってきましたし,テレビ中継を見て一喜一憂したこともありますが,今一度立ち止まって,そのような議論をすべきではないでしょうか?
 そんな時期にきているように思いませんか?

 各国のメダルの数が集計されたものを新聞の紙面で見ましたが,経済力の大きさとほぼ比例する結果となっていました.
 そのため,種目での勝ち負けを競うのではなく,そのために,どれだけの経済的な投資をできたか,間接的には,経済力の差を見せつけるためにオリンピックが行なわれているのではないかとすら錯覚してしまいます.

 東京オリンピックで談合があり,オリンピックが金儲けの道具とされているということ以上に,もっと根深い何かがこの制度を支えているように思えてなりません.

 そのため,メダルと一緒に満面の笑みを見せるアスリートの顔を見ると,昔のように手放しでそれを祝福する気持ちにはなれず,かなり複雑な感情を抱いてしまいます.

無関心

 「みんなが正しいと言いはじめたら、一回はそれを疑ってみること。一度だけでいいから左を見てみること。(永田和宏)」

 これは,本日の朝日新聞の「折々のことば」に取り上げられたものです。
 自分以外の大勢の意見が一致した時,それに対して何の疑問も持たないことは,そのことを「正しい」と信じてそれに賛成したというよりも,「無関心」なんだろうと思います。

 上の言葉は「反対せよ」とは言っていません。
 「疑ってみること」が必要だと言っているものです。

 賛成するとしても,本当にそれで良いのか,問題はないのかを自分なりに考え,そして,「正しい」と信じることができるのであれば,「賛成」で良いと思います.
 しかし,そのプロセスを抜きに,みんなの「正しさ」に賛成することは,本当の意味で賛成しているのではなく,考えること,疑うことを放棄した「無関心」でしかありません.

 そしてそのことは,「みんなが正しい」という意見を通すことにより痛みを押し付けられる人(不利益に扱われる人)がいる場合,その「痛み」に対して無関心であることを意味します.

 ここ数日,そのようなことを考えさせられる相談が寄せられたこともあり,上記の新聞で取り上げられた言葉が,とても大事なものと思えたところです.