刑務所の部屋を全て個室に

 刑務所には,受刑者が生活する空間として,複数名が共同で生活する雑居房と,1人部屋の独居房がありますが,原則,独居房にすべきではないでしょうか.

 このようなことを言うと,多くの方は,「?」となると思います.
 悪いことをした人に,快適な生活など与えてどうするという懲罰的な観念を有していれば,そのようなことをすべきではないという考えに至るのも自然といえば自然です.反対に,1人部屋だと寂しいだろうから,共同の部屋で良いはずとの考えもあるかもしれません.

 ところで,少し前ですが,放火犯で自らも重度の火傷を負いながら,医師による懸命な治療によって一命を取り留めた被告人が死刑判決を宣告されました.このことに対して,とある有名人が「死刑になるんだから,救わなくてもよかったのでは」という趣旨の発言をしたことがあります.
 しかし,死刑になるかどうかは裁判を経なければ確定しないことですし,そのようなプロセスを経なければならないものとされています.また,どのようなことをした(疑いのある)人であっても,目の前でその命が危機に晒されている以上,救命のための措置を受けられる,あるいは行うべきことは否定しようがありません.
 もしこれが否定されるのであれば,人間いつかは死ぬ以上,「どうせいつか死ぬんだから,治療しなくてもいいでしょ」といって,医療へのアクセスを拒否することすら正当化されかねません(行き着くところは,おそらく,納税額や前科などで選別されることになるのではないでしょうか.).
 上記のような発言ないし発想は安易すぎます.

 これと同様の考えに立てば,死刑囚であれば,死刑となるまでに拷問を行ったとしてもよいことにもなりそうですが,そうでしょうか.火事場泥棒も泥棒であることに違いなく,大きな法益が侵害される場合に,それよりも小さな法益侵害が常に許容されるとはいえません.震災があると,店の商品が略奪されることが日本でもあるようですが,許されることはありません.
 ずいぶん昔,とある男性の知人が「明日世界が滅びるなら,今日のうちに女性を襲う」と言ったことがありましたが,自分が反対の立場だったらと考えてみてください.絶対に許されないことはわかるはずです.

 ここで刑務所の話に戻れば,死刑囚(ここで,死刑の当否は措いておきます.)は,あくまでも,刑事責任として「生命」を奪われることが罰として定められているものです.それ以外の人としての尊厳を侵害されるべきではありません.
 懲役刑(拘禁刑)であれば,社会との隔離により自由が奪われるということも刑に含まれるのかもしれませんが,基本的には,役務に服することが刑罰となるはずです.しかし,だからといって,人としてのプライバシーなどが一切保障されないということにより,その点に苦痛を感じることまで甘受しなければならないといえるかというと違うはずです.

 また,刑務所は,受刑者の更生もその目的とされているはずです.
 そうだとすれば,社会復帰した際の生活環境を考えれば,共同生活が原則となることはないはずです.個室を原則とし,それとは別に,共有スペースを設け,他者との関わりを持ちうるだけの機会を確保するという方向で刑務所ないの環境が整えられるべきではないかと思います.

 なお,犯罪も行わず社会内で生活する人々の生活が大変な中,刑務所を快適にしてどうするという意見もあるかもしれませんが,刑務所内での人権保障の問題と,社会内での国民の生活保障をどうするかということとは別問題です.生活保護や年金の支給水準を高めるべきだという議論をすれば良いだけです.比較対象として適切ではないと思います.

 最後に,何でこんなことを話題にしたかというと,やはり,自分が刑務所に入ることがあるかもしれないと考えた時,全てのプライバシーを放棄させられ,共同生活を強いられることが一番の苦痛だと考えるからです.
 仮に,私が受刑者となることがあっても,それ以上に刑務所内でもWi-Fiが欲しいとかいうつもりはありません.刑に服するにあたっても,プライバシーの確保をはじめとして,ただただ,人としての尊厳は保障してほしいと切に願うものです.

「平和ボケ」に対する懺悔

 高校生の頃に行なった自分の発言について,軽率であり,共感性や想像力が欠けていたことを,ここで懺悔したいと思います。
 その発言は,東京の高層ビルや住宅等の建築物が密集した状況を見て,

「大地震が起きたら面白いだろう」

と述べたことです。

 今思えば,未熟というよりも,具体的な想像力に欠けていたのだろうと思います。
 また,違う言葉で言えば「平和ボケ」していたのだとも言えるかもしれません。

 ところで,ここで申し上げたいのは,この「平和ボケ」という言葉は,高校生の頃の私のように,共感性や想像力が欠け,ウクライナやガザ地区その他国際紛争が生じている地域の惨状を目の当たりにしながら,何も感じないことに対して使うべきだということです.
 連日のようにガレキや焼け跡が広がった惨状が映像で流れてくる中で,テレビやネットの向こう側で起こっている現実を他人事のように感じ,無関心となっている国民や政治家に対して使うべきです.
 今まさに,この国全体が平和ボケしているということを認識し,世界で起こっていることに対して,何ができるのか,真剣に考えるべきではないでしょうか.

 他方,反対に,国家安全保障における軍拡を議論する際に,この言葉を用いることには注意すべきと考えます.
 その理由は,ここでの「平和ボケ」は,軍拡を反対する考えに対し,反論をさせずに,これを認めさせるのためのマジックワードであり,これを前提にした場合,具体的な議論が成り立たないからです.

 もともと,「平和ボケ」とは,平和に慣れすぎて現実を見失う状態を指す言葉で,戦争や安全保障に関する自国を取り巻く現状や世界情勢を正確に把握しようとせず,争いごとなく平和な日常が続くという幻想を抱くことを指すものと理解されています.
 そのため,戦争に対する備えとしてどの程度のものが必要かという議論する際,自衛隊の装備等の拡大を支持する政治家が,防衛の重要性に考えが及ばないことを指して「平和ボケ」と用いる場合があります.

 しかし,ここでの「平和ボケ」は,国家安全保障に対して,どれほどの現状認識や危機感を有していたとしても,その装備を増強する方向に賛同しない限りは,常に「平和ボケ」とみなされることが前提となっています.どのような認識を有していれば「平和ボケ」ではないのかは明らかではありません.具体的な基準のようなものが存在して用いられているものではありません.

 そのため,この文脈における「平和ボケ」から抜け出すということは,軍拡を際限なく許容することを意味し,この言葉は,軍拡を進めるための,反論を許さないためのマジックワードとして用いられ,建設的な議論をさせないためにあえて使われていると言っても言い過ぎでないと思います.そして,その場合の軍拡も,これと比例してどこまで行っても十分なものと判断されることがなくなるはずです.

 ですから,国家安全保障を語る上で,この「平和ボケ」という言葉は用いるべきではないというのが私の意見です.

 そして,冒頭で述べましたように,崩壊した建物やそれらのガレキが一面に広がる映像からは,電気・水道・ガスというライフラインが断絶し,雨風を凌ぐ屋根や壁がなく,公衆衛生すら確保されないということが想像されます.
 このような,平和が損なわれた場面を目の当たりにしながら,そのことの意味に考えが及ばないことを指して,「平和ボケ」という言葉を用いることにより,その想像力の欠如や無関心が戒められるべきではないかと思います.
 「平和ボケ」であることの基準として,普通の生活が失われた状態を認識しながらそのことに関心を払わない状態を用いることは,その基準として相当と思われます.

 高校生の頃に,冒頭のような発言に及んだ私でも,年齢を重ねたことで,昨今のウクライナやガザの状況が具合的な映像で流れてくる中で,その悲惨さをある程度の具体性を持って認識することができるようになるに至っています.
 特に,近年の震災で避難生活を送らなければならない方々の存在を間近に感じることができる我が国であれば,尚更,そのような想像力は働きやすいのではないでしょうか.

 自分の置かれた平和な環境(水道・ガス・電気があり,雨風を凌ぐ屋根も壁もあることが普通であること)に慣れ,そうでない状況に置かれることがいかに過酷なものであるのかについて,想像力に欠ける,このような状態をさして,まさに「平和ボケ」というべきです.

 そして,その映像の向こうにある現実の世界について無関心となることなく,仮にそのようなことがあれば,これを戒める意味で「平和ボケ」という言葉が使われるべきであるように思います.
 今まさに,「平和ボケ」という言葉により,改めて平和の意味を考えるべき,そんな時代ではないでしょうか.

検事と弁護士の違い

 検事と弁護士の違いは何か.
 それは,「自分も被疑者・被告人になる(なった)かもしれない」という考えを有しているかどうかだと思います.
 もちろん,弁護士全員がそう考えているとは思いませんし,検事の中にもそんな考えを有する方もいるかもしれません.また,裁判官についても,検事と同様のことが当てはまるだろうと思われる方が多く存在するはずです.
 日頃の業務の中で,検事や裁判官の言動に触れるにつき,このようなことを強く感じることが多くありますが,「自分が反対の立場だったら」ということを想像し,他者に対する態度に配慮することって大事ではないでしょうか.

 新聞の報道で,岸田(元)首相襲撃事件の被疑者に対し,「引きこもり」「替えがきく」などと述べて取り調べ中に検事が侮辱したことが記事として掲載されまし.これ以前には,被疑者に対して「ガキ」「嘘つきやすい体質」「検察なめんな」と怒鳴るなどした事例も報道されました.

 子供の頃,タイトルは忘れましたが,とある刑事ドラマの中で,刑事役の方のセリフに「疑うことが刑事の仕事ではない,信じることだ」というものがありましたが,あれは実務では嘘です.ドラマだけのことです.
 実際,弁護人となり被疑者に警察署で面会した際に,「警察は味方だと思っていたのに何を言っても信じてくれない」と困り果てた様子で,アクリル板越しに訴える方を何人も見てきました.

 そもそも,警察も検察も,被疑者・被告人を犯人にして有罪とすることで自らの評価が上がる職業です.「逮捕したところ犯人ではないと判断したので釈放します」「起訴しましたが弁護人の主張を踏まえると無罪と判断し訴えを取り下げます」では,彼らはなぜ逮捕したのか起訴したのか責任を問われかねません.
 だからどうするか?
 自白させて,罪を認めさせて,被疑者・被告人に責任を負わせ,警察,検察の対応に問題はなかったという事実を築きたいということを考えるようになるはずです(弁護人として,被疑者に対してこのような説明をすると,すごく納得してもらえることがよくあります.).

 そうすると,捜査においては,公正に事実関係を調べて判断するという考え方は後退し,責任を負わせる方向,疑う方向でしか取り調べが行われないことになります.
 このことは,被疑者・被告人が犯人であり有罪であるという先入観という以上に,犯人であり有罪でなければならないという確信犯的なものであり,その時の検事の対応は,被疑者・被告人の地位を当然のように下に見ることになるはずですし,検事の描くストーリーを否定されれば,そのような態度を不当・不誠実だと感じ,彼らを侮辱することについての問題性も感じないはずです.

 また,これと同様に,刑事裁判官の中には,被告人に対して,非常に丁寧に接する方もいますが,反対に,命令口調で訴訟指揮を行い「座りなさい」「聞いていなさい」という方もいます.日本における刑事裁判の有罪率の高さが大きく影響しているからですが,これも,被告人が有罪であるとの先入観ないし確信犯的な認識に基づくものだと思います.
 法廷に入廷する際に,手錠腰縄をつけられていることや,有罪の判決が言い渡される前から,証言台の前に立たされたままで手続きを進めることも当然と考え,このことについて疑問も感じないのは,そのような認識に基づくと思われます.

 しかし,仮に,被疑者・被告人が犯人であり有罪であるとしても,それは,その限りで不利益(刑罰)を科されるということしか許容されるべきことではないはずですし,これを理由に,検事から受ける侮辱的言辞が正当化されることはありません.
 犯人だから,有罪だから人としての尊厳を侵害されても文句は言えないということにはならないはずです.法廷での公判手続きは,被告人を辱めるための手続きではないはずです.
 そしてこのことは,仮に検事や裁判官が被疑者・被告人となった時にも,同様に,人としての尊厳を脅かすような取調べや裁判手続きが行われてはならないことを意味するはずです.つまり,誰が被疑者・被告人になったとしても,人としての尊厳を有するものとして扱われることが保障されなければならないということです.

 自動車を運転する方,あるいはしたことのある方の多くは「無事故無違反」という言葉を口にする,あるいは聞いたことがあるかと思いますが,実際は,「検挙されたことがない」というだけで,法違反をしていないとは言い切れないはずです.
 そのような意味だけでなく,私自身のこれまでの人生を振り返ってみても,もしかすると逮捕されたかもしれない,あるいは,そのようなことを行なったかもしれないということは数え切れないほどあります.
 自分がこれまで逮捕されることなく,刑事裁判の被告人として証言台に立つことなく人生を生きてこれたことは「運が良かった」というのがいちばんの理由だと思っています.品方公正な生き方をしてきたからではありません.また,この先の人生ではどうなるかはわかりません.

 そしてこのことは,検事にも裁判官にも当てはまるはずです.
 そうであれば,目の前の被疑者・被告人を見て,自分もそうなるかもしれないということを少しでも想像することができれば,彼らに対し,侮辱的な言葉をかけ,あるいは有罪を前提に命令口調で訴訟指揮を行い辱めを受けさせるということのないように,相当な配慮を払うことができるはずです.

 「自分が反対の立場だったら」ということを想像し,他者に対する対応や態度に配慮することって,やっぱり大事ではないでしょうか.自分がその立場になって気づいてからでは遅いです(まして,法律上,そのような取り調べが認められているとは到底解されません.).
 特に,検察に対してはそう思います.

マイナンバーカードの申請手続

 保険証が廃止されるということで,ここまでマイナンバーカードを作らずにいた私ですが,とうとう,申請をしてしまいました.
 しかし,便利さのあまり,スマートフォンから申請したことについては反省というか後悔し,早計であったと思っています.その理由は,私のメールアドレスが行政に知られてしまった点にあります.

 マイナンバーカードについて,とある方は,「作ったところでメリットもないし何か優遇されるわけでもないし」と言って,作るのを渋る方がいました.
 しかし,行政の効率化については,私自身が公務員であったこともあり,それ自体は認められるべきことで,自己への優遇があるかどうかで行動を決定するというのは利己的に過ぎるかと思います.

 私がこれまでマイナンバーカードを作らなかったのは,自らに対するメリットの有無ではなく,自己の情報が一元的に管理されるということに対する危惧感というか嫌悪感からでした.
 テレビではワイドショーが,週刊誌やネットではゴシップ記事が,芸能人に限らず,何かしら他人のプライバシーをネタにして視聴率,視聴者数を稼ぐことが当然として行われています.おそらく,人に備わった他人に対する興味関心という本能が存在するからなのだと思います.私自身もそのこと自体は否定できません.

 ところが,このようなことは,芸能人のプライバシーなど,娯楽ともいえるような場面だけで認められるかというとそうではなく,時の権力者が,自らを批判する言動に対し,そのことを不快に感じた時は,どこの誰の発言であるか,どのような者であるのか,その発言だけでなく,その発言者の思想・信条や身上関係にも関心が向けられるはずです(私の公務員としての経験上,そのように感じる場面というのは,比較的多く目にしてきたと感じています.).
 これが,単に,一般市民が芸能人に対して抱くような関心であればともかく,そうではなく,権力者がこれを行うことは,国民に対して,政治的な発言等を萎縮させることに繋がりません.

 実際,岐阜県警の大垣署では,発電所の建設とは全く関係を有さない方の情報が,活動家だからなどという理由だけで収集され保管され,更には第三者に提供されていたという事実が明らかとなっています.権力者により,これと同じことが行われないはずがないというのが私の認識です.政治家や官僚も同様です.

 そうすると,マイナンバーカードを作ったところで,それまでの人生と何ら変わらない毎日を過ごせていたとしても,一度,権力者の反感を買うような言動に及ぶやいない,身分上のことだけでなく,健康保険の被保険者としての情報を介して,病歴などについても紐づるしきで手繰り寄せることができることになる(だろう)このマイナンバーカードという制度は,私にとって,鬱陶しいだけのものでしかありません.
 そのため,これまで,マイナンバーカードを作らなかったのはこのような理由からでした.

 そうでありながら,行政の効率化を否定する気はありませんし,病院にかからずに生活することもできないため,やむなく,申請するに至ってしまいました.
 しかし,申請するにあたり,スマートフォンから自己のメールアドレスを入力したため,行政が保有する私の個人情報の一つに,このメールアドレスが加わったことを考えた時,場合によっては(憲法21条はありますが)検閲の対象にもなりかねないと思わざるを得ません.

 そのため,便利さに負け,安易にスマートフォンから作成を申請してしまったことが悔やまれます.
 マイナンバーカードは作ってしまいましたが,今後も,必要以上な情報を行政(権力者)に渡さないよう,気をつけたいと思っている今日この頃です.

百田氏の発言に思うこと

 日本保守党の百田氏の発言が新聞等に取り上げられています.
 これについて,ちょっとだけ考えたことを書いてみます.
 なお,百田氏の発言はYouTubeの番組に出演した際のもので,少子化対策について「SFとして」発言したとの釈明とともに,不快に思われた方に謝罪しますとX(旧ツイッター)に投稿したようです.

 発言だけを取り上げると次のようなものだったようです.

 「女性は18歳から大学に行かさない」
 「25歳を超えて独身の場合は,生涯結婚できない法律にするとかね」

 これは,「子どもがいることをイコール幸せになる,という社会の価値観をどう取り戻すのか」という別の方の発言を受けてなされたもののようです.また,「子どもを産むには時間制限がある,と子どもたちに教えるべきだ」との発言に合わせて

 「30超えたら子宮を摘出する,とか」

 とも発言したようです.

 まず,そもそも,旧優生保護法により生殖能力を国に奪われた方々の裁判で,国は敗訴し,同法は,制定当初から違憲であったと最高裁が判断しました.
 そうだとすれば,仮にSFだとしても,百田氏は,政治家として,最高裁判決の意味を理解しておらず,実務的な能力の面で問題があるのではないかと思われます.

 また,これを聞いた女性が,子どもを出産して親になろうと思うかというと,逆効果のように思います.
 生殖行為(性交渉)だけ行い,あるいは養育費を支払わないなど,子どもに対して責任を持たない男性は多数存在することからすれば,男性に対する制約もセットで挙げるぐらいの配慮はなかったのかという点でも疑問です.
 私は,特にフェミニストを自称するつもりはありませんが,フェアではない発想は嫌いです.

 そして,百田氏は,謝罪をしていますが「私の表現のドギツさは否めないものがありました.不快に思われた方には謝罪します」とのことですが,これは何を意味するのでしょうか.
 これは「不快」にさせたことは謝るけれども,発言の内容自体に問題はないという認識を明らかにしたものといえます.

 最後に,百田氏として,摘出された子宮はどうなると考えたのか?

 国が,これを生命維持装置内で保存するなどして,凍結保存した精子を用いてこれと受精させ,国家により人工的に子どもを生み出そうということまで意味しての発言なんでしょうか.少子化対策ということで,そこまでの発想があったのであれば,SFという釈明も理解できなくもないですが,どうなんでしょうか.
 発言からすれば,出産をしてもしなくとも,女性が30歳を過ぎれば摘出されてしまい妊娠出産ができなくなるという意味で,「時間制限」の比喩として述べただけということであれば,作家としてもがっかりな気がします.