猫がゴロゴロと喉を鳴らすときに伝わってくる振動と,バイクのアイドリング時に感じるエンジンからの鼓動って,どこか似てませんか?
私だけですかね.
そう思って検索したところ,各種SNSや動画やら,結構ありますね.
そう感じるのは私だけではなかったみたいですね.
平和で何よりです.
猫がゴロゴロと喉を鳴らすときに伝わってくる振動と,バイクのアイドリング時に感じるエンジンからの鼓動って,どこか似てませんか?
私だけですかね.
そう思って検索したところ,各種SNSや動画やら,結構ありますね.
そう感じるのは私だけではなかったみたいですね.
平和で何よりです.
先日,自宅で,子ども(2番目の子)に対し,
「最近ね,『結婚するんじゃなかった』って思うことがよくあるんだよね」
と話したところ,その子は
「うん,うん,」「わかる,わかる」
と頷いてくれました.
このようなことを言うと,「子どもの前で」とか思われるかもしれません.
しかし,注意して欲しいのは,「結婚するんじゃなかった」と言った意味は,決して,相手(配偶者・子どもの母親)を間違ったという意味ではありません.
「結婚」という制度を利用して,今の夫婦,親子及び家族関係を築くことを安易に選ぶべきではなかったという意味です.
法律の規定する「結婚(婚姻)」という制度を使わなくとも,今の配偶者とともに暮らし,子どもを設けて(授かって),親子として監護・養育することはできるはずです.
確かに,「結婚」というシステムを用いることで,配偶者控除などの税制や社会保障において優遇される側面はあるかもしれませんが,所詮,どのような法制度を採用するかの問題でしかありません.
また,「結婚」することにより,社会的な信用のようなものを他人から受けられる場面があることは否定しませんが,そうしなければ実現できないことって,それほどないはずですし,さらに,その場合に得られる社会的な信用といっても,それほど深い意味の伴うものでもないはずです.
そのようなことを考える中で,先日の新聞に「結婚って,基本的に子どもがすること」という言葉を見つけて,思わず唸ってしまいました.
私においても,結局のところ,思慮浅はかな「子ども」として,よく考えて「結婚」という制度を利用したわけではないということです.
だから,安易に,選ぶべきではなかったという意味です.
ところで,(選択的)夫婦別姓に反対する立場から家族の「一体性」という言葉を聞くことがあります.
しかし,家族に「一体性」があると,何か良いことがあるかというと,特にそういう具体的な効果が生じるわけではなく,実際にあるのかないのかわからない,単なる観念的なものに過ぎないと思います.むしろ,反対に,悪い意味で,「家族」という観念に縛られてしまうことの方が多いのではないかと思います.
そもそも,法律上,離婚することも認められていますし,結婚しなければ子を産み育てることができないわけでもありません.
シングルファザー,シングルマザー,あるいは事実婚を選んだ方,さらには離婚するに至った方は,家族の「一体性」を得ることのできない,あるいはそれを失った社会的に劣った地位にあるということになるんでしょうか.
さらに,親子においても,血縁があるのかないのか,仮にそれがあったとしてどれだけの効果が伴うかというと,観念的なものでしかないはずです.
生物学的にDNAの型が一致するといっても,目で見てそれを確かめることはできませんし,容貌が似ているかどうかも,多くの場合,その人の感性によらなければならないはずです.
むしろ,親子や家族であることは,親子や家族として過ごした時間と,その時間をどのように過ごしたかによって,その結びつきを強く感じたり,あるいは,反対に,逃れられない呪いのように感じることにもなるのであって,決して,「結婚」という制度を用いて夫婦及び親子で「同姓」を名乗ることによって生まれるものではないはずです.
とある裁判例(2009年12月21日東京高裁判決)では,養育した子が実子ではなかったことが判明した事案において「一郎(注:子)を一人の人間として育て上げたのであり,その過程では経済的費用の負担やその他親としての様々な悩みや苦労を抱えながらも,これらのいわば対価として,一郎が誕生し乳幼児期,児童期,少年から大人への入り口へと育っていく過程に子を愛しみ監護し養育する者として関わりながら,その成長の日々に金銭には代えられない無上の喜びや感動を一郎から与えられたことは否定できるものではあるまい」と述べられています.
他にも,「佐藤」姓の人口が日本では最も多いようですが,国民のうち,佐藤さんは,同じ「佐藤」姓の方に出会うと,ルーツがどこかで一緒だとかいって,親近感や一体感を感じることがあるんでしょうか?
私もそうですが,私の子どもも,このようなことに非常に敏感です.
そのため,結婚を選ぶとしても,オプションがある中で選べるようにすべきではないでしょうか.選択的夫婦別姓制度を採用しない理由はないように思います.
最近の報道によると,国旗(等)を毀損する行為を犯罪として処罰できるようにする動きがあるようですが,非常に違和感を覚えます.
これに賛同することは,抽象的には「踏み絵」をさせられ,「日本」という名の宗教を信仰することを約束するのと同じであると思っています.
そして,現実的には,政治的な表現の自由(政治に対する意見表明の自由)を手放し,施政者に盲目的に従う意思を示すことと同じことであると,私としては理解しています.
国旗とは,おそらく,「国旗及び国家に関する法」1条が「国旗は、日章旗とする。」と定義するいわゆる日の丸のことをいうものです.
確かに,「日本人として国旗を毀損してはならない」といわれれば,なんとなくは,国民として「そうね」ぐらいには思えなくはありません.
私であっても,この国で生まれ,各種の制度(安全保障,社会保障)に守られていることは理解できますし,平和に暮らせていることにも感謝します.
「国」に対する自己帰属感(≒アイデンティティー)を有する方は特にそう思うかもしれません.
しかし,政治家の裏金問題や社会的な格差など,手放しで容認できないことはたくさんあるはずで,国ないし政治に対し不満を抱く場合に,国旗を毀損するという行為によってこれを表現することを禁止しなければならない理由はないはずです.
この国に帰属することで何らかの苦痛を感じ不自由を余儀なくされる国民に対し,これを禁止するということは,まさに踏み絵を踏ませることと同じことではないでしょうか.
数年前に「保育園落ちた日本死ね」というプラカードを掲げてその時の政治や社会に抗議をした方がいたように記憶しています.
そのような抗議の意思を示し,その怒りを表現するために,国旗を毀損するという行為に及ぶことがあったとしても,その場合,むしろ,「国」というシステムの方が,その抗議の意思表示に対し「そこまで怒っているんですね」「早急に対応します」ぐらいの寛容さがあるべきではないでしょうか.
国旗の毀損を犯罪とすることは,そのような国ないし政治に対する表現の自由への規制にも確実につながるはずです.そして,このことは,国旗の毀損どころか,そのようなプラカードを掲げただけで,どこかの国と同じように,警察に逮捕され拘禁されてしまう,そんな日が日本にも訪れることにつながるものとも思えてなりません.
国旗の毀損行為を犯罪とすることについては,他にも言及すべきことは多々ありますが,私は反対です.
司法修習生の頃,実務修習として,1年間を大阪で過ごしました.
その時,街全体が,
「No.2でいいけど,東京の後追いはしない」
という感じを醸し出しているように感じたことがとても印象深く,大阪での生活を今でも懐かしく思い出します.
最近は,JR大阪駅や地下鉄梅田駅近辺が整備されてはいますが,東京ほど洗練されていない感じや,東京ほど広くはないながらも,でも,ギュッと濃い文化が集まった街という感じがとても好きで,1日も長く大阪生活が続けばと思うほど,居心地が良く感じました.
例えば,大阪駅前ビルには第1から第4まであったりとか,一番の主要駅なのにJR「梅田駅」はないとか,梅田の地下鉄に通じる階段を降りていくといきなり立ち飲みの串カツ屋があったりとか(今は立ち退いているかもしれません),地上に出れば異常なほど長く続く商店街があったりとか,その反面,御堂筋沿いはオフィス街なのに建物の高さが制限されたりとか,美容室で女性の髪の盛り方が派手だったりとか,甲子園は大阪にはないはずなのにタイガースのテーマ曲が至る所から聞こえてくることなどなど.
また,電車の駅の呼び方についても,東京も「ニコタマ」(二子玉川)と略すことはありますが,大阪で「タニヨン」(谷町4丁目)とか聞くと,ちょっとズレた(?)センスの良さというか独特さを感じられます.
それなのに,大阪が「副首都」やるんですか?
災害とか,有事において東京が機能しなくなる場合に備えるのは必要だと思いますが,それって,副首都があるから大丈夫という状況ではすでにないように思います.
また,一部の省庁を移転するとかいうのは,以前から,政治家が地方のためにリップサービスで言ったことがあったような気がしますが,霞が関の勤務経験がちょっとだけある立場からすれば,官僚は誰1人望まないはずです.
国会答弁等で,省庁間での調整が必要なときに,物理的な距離があるのはオンラインを駆使するとしても,歓迎されないと思います.
しかも,国会議事堂は東京にしかないんですから,国会の同意案件とかあれば,東京でやるしかありませんよね.
副首都構想の狙いとして,東京の一極集中を是正するという狙いもあるようですが,「副首都」というラベルを貼っただけで何とかなるようには思えません.
まして,人口がこれから減ることを考えれば,狭い国土と資源の乏しいこの国が,世界の中で存在感を示すためには,抜き出た存在の東京があってのことのようにも思えます.
なお,福岡市もこれに手をあげようとしているようで,それを理由に福岡を副首都に推したいというわけではありませんが,大阪に,そのような肩書きをつけることについては,なんか,ちょっと違うような気がします.
さらにいえば,政治において,今,急いでやるべきことなんでしょうか?
いずれにしても,福岡で当たり前のように串カツが食べられるようになりましたが,大阪はずっと,そのままでいて欲しいです.