イランと自主交渉の時では?

 アメリカでの大統領への訪問で,高市さんは,憲法9条の制約で,法律に基づき行えることとそうでないことがある旨を説明されたとの報道に接しました.

 大統領に対する高市さんの最初の発言には驚かされましたが,まあ,立場もあることですから大変だったんだろうというのは理解できます.

 ところで,予算を年度内に成立させようとかなり無理な日程をしいていたところ,暫定予算の編成を行うことになったようです.

 それならいっそ,日程も確保できたということで,日本として,主体的に,イランとの間で,この戦争を終わらせるために対話を始めてみてはどうでしょうか.
 安倍さんは,イランとも独自に外交をしていたようですし,高市さんもそれにならってやってみてはどうだろうかと思います.

 イランへの攻撃に関するアメリカの要請を断るためにも憲法9条が機能したことですし,平和憲法を有するという日本特有の立場をアピールするには絶好の機会ではないでしょうか.

 外交オンチで,見当違いなことを言っているのかもしれませんが,武器を売って外貨を稼ぐよりも,石油価格の安定につながれば,国民の好感度も高まるように思います.

イランへの攻撃についての評価を

 国会での予算審議が大変なことになっています.
 従来の審議時間よりも大幅に審議時間が減らされています.

 これをよしとするかどうかと言えば,良いわけはないですが,ただ,議院内閣制のもとで政党による政治をこの国が許容している以上,選挙結果を反映した,予定された国会審議だともいえます.要するに,儀式です.

 そのため,国会をあのように運営することを,私自身良しとする気はありませんが,ただ,そうであっても,イランへの攻撃について,日本として一定のコメントを出すべきではないでしょうか.

 イランの核開発に対してそれを非難するのは悪いとは言わない.
 でも,アメリカの行為に対して,何も言及しないのは,さすがに国民の意識に照らしても,外交上適切な態度とは言えないんじゃないんでしょうか.

 イタリアのメローニ首相は,アメリカ(トランプ)寄りの立場をとってきた方ですが,アメリカの行為,特に,イランの小学校に誤爆したことに対し,「責任が速やかに明らかにされることを求める」とのコメントを出しています.
 その責任を直接的に求めるものではないため,アメリカに配慮した表現ではありますが,実質的に,その責任を問う意思を明らかにしたように思います.

 日本とアメリカとの関係があるとしても,与党の議席数によって,その態度を曖昧にして良いものではないはずです.「法的評価は差し控え」るという答弁・態度はこれ以上維持すべきではない状況だと思います.
  

公共の福祉と公共の利益(公益)

 統一教会の解散命令の東京高裁決定が新聞で報じられた際,その新聞では,「公共の利益が損なわれた」という引用をしていたため,私の頭の中で「?」が浮かんできました.
 その理由は,宗教法人法は,法人の解散について,「公共の福祉を害する」と明らかに認められる場合に命ずることができるとしていながら,裁判所が「公共の利益」と述べたと報じられたことに違和感があったからです.
 なお,他の媒体をあたったところ,東京高裁はやはり,「公共の利益」ではなく「公共の福祉」という条文の文言そのものを用いていたようです.新聞の引用に誤りがあったのだと思います.

 そうだとしても,公共の福祉と公共の利益(公益)とは何が違うのでしょうか?

 公共の福祉は,人権と人権がぶつかり合うときに,それらの利益状況を調整して制限するための根拠として理解されています.憲法の条文に規定があります.

 例えば,過去の犯罪歴を公表する自由(表現の自由)と,過去の犯罪歴を公表されることにより名誉が毀損されない自由(人格権)がぶつかり合うとき,どちらが制約されるか(公表されることを甘んじて受け入れるべきか)を検討し,その結果,公共の福祉を理由に,一方(双方)が制限されるということです.

 これに対し,公益は,公共の福祉と同じような効力を含むとも言われていますが,抽象的に社会全体にとって有益かどうかという観点で,他者の人権の制限を正当化する根拠とされるものと理解できます.
 上記の例でいえば,犯罪の被害者とならないため,あるいはそのような人が公職に就くことは国民のためにならないという理由から,過去の犯罪歴を明らかにすることは,公共の利益に叶うのか,叶わないのか,叶うのであれば公表されることも許される(公表されることを甘んじて受け入れるべき)という結論になりそうです.

 他にも,原発を稼働することと,それにより,住民がその場所に住めなくなるということを考えた場合,どちらの人権が制約されることとなるでしょうか.
 つまり,電力会社が原発を稼働して事業を行うという経済的自由と,それにより,故郷などの好きな場所に住む自由(居住の自由)を主張する場合,どちらが制約されるかということです.この場合,人権制約の根拠として,公共の福祉と公益とでは,異なる結果になるものと思われます.
 公共の福祉であれば,経済的自由と居住の自由のいずれが制約されるべきか,その権利・自由の内容に個別具体的な事情を踏まえて等価的な権利であることを前提としていずれを制約すべきかという検討がなされるはずです.
 これに対し,公益を理由とする場合,おそらく,社会全体に電力を供給するということで得られる利益が量的に把握され,それにより,少数の国民の居住の自由が犠牲となることも許容されるという結果になりそうに思います.

 この例えであれば,転居させられることへの補償が問題となるだけではないのかと思われるかもしれませんが,次のような場合はどうでしょうか.

 とあるアーティストが歌っていましたが,「たくさんの命と一個の命,どっちが大事か?」ということについてです.
 公共の福祉であれば,どちらも大事であるし,少数であることを理由に制限を受けることを許容することはないはずですが,公益を理由とすれば,少数であることも理由として,おそらく数でその優越を決してしまうことにつながるのだろうと思われます.そのような理解が可能だということです.
 1人が犠牲になることで,その他の大多数の命が助かるということを理由に,その1人の人の命を奪うことが正当化されるのでしょうか?
 確かに,刑法の緊急避難が成立して犯罪にならないという意味では正当化される場合はありますが,これを国家がやってしまって良いかというのがここでの問題です.
 自分がもし「一個」の方だとするとどう考えるでしょうか.
 そしてその場合に,「公共の福祉」と「公共の利益」のいずれについて,憲法の条文に存在すべきと考えるでしょうか.

 長々と書きましたが,「公共の福祉」と「公共の利益」というそれほど表現に違いがあるように思われないことでも,少数者の人権を保障するための機能という意味では大きく異なる可能性を有しています.
 言い換えれば,時の権力者がどう判断するのか,あるいは,声の大きい(多い)方が保護されるという社会を許容するのかという違いかと思います.

 新聞の報道について,違和感を持った理由が,少しでも伝われば幸いです.