「〇〇に強い」は信用できる?

 あらかじめ申し上げますと,多くの方にとって批判的な内容となります.
 もしかすると,私のHPや私の出している広告もこれが当てはまるかもしれません.

 弁護士事務所のHPや広告を見ると

 「〇〇に強い」「当事務所が選ばれる理由」

 といった記載をよく見かけますが,これって信用できるんでしょうか?

 おそらく,多くの方は,「絶対に儲かります」「利益率120%」などの言葉で投資や仮想通貨等の購入に誘う広告を見ても,怪しいと思うはずです.

 そうそう上手い儲け話があるはずはないからというのがその理由ですが,それだけでなく,それほどの利益が出るのであれば,他人に勧めずに,勧誘者自らが行うはずです.それにも関わらず,それを勧めてくるというのは,何か裏があるはずであり,怪しいと考えるはずです.

 しかし,弁護士事務所のHPの「〇〇に強い」という記載を見ると,多くの方が信じてしまいがちではないかと思います.

 先日,とある方が,「弁護士を解任した」と言って,相談にお越しになりましたが,その際,解任した弁護士について「HPに『〇〇に強い』とあったから依頼したけど,全く成果が上がらない」ということを言っていました.
 それを聞いて,「上手くいくわけないよ,その事件では」などのことが口元まで出かかりました.

 そもそも,HPにある「〇〇に強い」とは,誰がそう言っているかというと,その弁護士ないし弁護士事務所が自分のことを言っているわけで,基本的に,信用して良いものではありません.
 もちろん,本当にその分野に精通しているかもしれませんが,「〇〇に強い」と宣伝することで,その弁護士が依頼を受けて利益を得るという関係にある以上,理由なく信用して良いことにはならないはずです.
 実際に相談に行き,具体的な説明をどれだけしてくれるか,経験を踏まえて相談内容をどれだけ具体的に検討してくれるのか,それを聞かない限りは,依頼をするに足るだけの「〇〇に強い」弁護士であるのかどうかは判断ができないはずです.

 このことは,裁判において,自分の利益になることを主張したとしても,証拠がなければ信用してもらえないことと同じです.
 例えば,残業代を請求する事件で,労働者が「休憩時間はありませんでした」といえば未払の残業代は増えるという関係にある以上,本当にそうだったのかは,直ちに信用してもらえるということにはなりません.
 実際の仕事の状況や,仕事の合間に昼食をとるときの様子を具体的に供述するなどして,ようやく信用してもらえるというのが裁判の実務です.

 反対に,自分に不利益となることを述べていれば,そのこと自体は基本的に信用して良いと考えられています.

 例えば,私の場合,離婚や相続は苦手です.基本,ご依頼を受けません.
 理由は,家族や親族間の憎しみの感情に挟まれることが嫌で,また,「どっちが悪い」という曖昧で,分析的に検討することができない事件の対応が苦手だからです.
 私がこのような説明をすれば,多くの方は,おそらく「ああ,この人は離婚と相続は苦手なんだ」と思うはずですが,そう考えることにそれほど問題はありません.
 なぜなら,そんなことを言えば,私が離婚や相続の仕事の依頼を受けることができないという不利益を被るからです.
 それにも関わらず,自分自身でそのように宣言するのであれば,本当なんだろうなと信用して良いと考えられことになるからです.

 そうすると,「当事務所が選ばれる理由」との記載もよく見かけますが,これについてはいかがでしょうか?
 上記までの説明を参考に考えてみてください.HP制作会社の常套句だと言うことはすぐに理解できるものと思います.

次の標的は誰か?

 明日は投票日ですね.
 期日前投票を済ませた方もいると思いますが,各党の掲げる公約のどのあたりを評価して投票先を決めているんでしょうか?
 SNSのおすすめ動画で誘導されている方もいるかもしれませんが,私個人としては,どの政党についても,その公約全てを否定するつもりはありませんし,反対に,その全てに賛成するつもりもありません.もちろん,「アンチ」ないし「シンパ」という感覚で,特定の政党を応援するものでもありません.

 ただ,とある政党の公約を見て思ったことを少しだけ.

 前回,「〇〇人」ファーストについて少し述べましたが,とある政党は,日本で就労する外国人について,語学能力を求めるものとしています.
 確かに,それは良いとしても,それと並んで

 「日本の文化的背景の理解と遵守」の厳格化

 ということを掲げています.
 そうすると,日本の文化やその背景について馴染めない日本人は,どういう扱いになるんでしょうか?

 20年以上前,私が公務員だった頃,公務員労働組合へのバッシングがひどく,選挙の際には標的とされ,あたかも,それらが世の中の諸悪の根源のような言われ方をされていたような記憶があります.
 社会的な不遇を感じている国民に向け,「公務員労組はかくも優遇されている」という主張がされていたように記憶しています.

 つまり,外国人に限らず,特定の方々(ここでは,公務員労組)を敵として仮想し,そして,絶対に自分たちが論戦で勝てるフィールド内で論陣を張り,有権者にアピールするということが,昔も今も行われているということです.

 事実関係が正確かどうかは自信が持てませんが,公務員労組へのバッシングを背景に行われた選挙の結果,社会保険庁の解体や,郵政民営化が次々に行われたという印象を有しています.
 そして,当時と比較すると,公務員の労組は確実に勢力が縮小しているはずです.

 そうすると,次の選挙では「誰」を標的にして選挙を戦うか,ということを考えるのは自然的な発想ですよね.

 今回の選挙では,外国人対策が一つの論点とされていて,事実と異なること(フェイクニュース)すら平然と主張されているようです.
 もし,この主張や公約が,何らかの形で結実してしまい,排外主義的な政策がとられた結果,多くの外国人が日本から排除された結果,次に誰が仮想敵として標的とされてしまうのかと考えると他人事ではないなと考えざるを得ません.

 法律を守ったとしても,異性愛者,夫婦別姓推進者,家族ではなく個人の尊重を基礎とする思想を有する者,天皇制に反対の者その他の「日本の文化的背景を遵守しない者」は,社会保障を受けることを否定されるなどして,この国から排除されてしまうのでしょうか.

「〇〇人」ファースト

 今年(2025年)の3月末に,第1子が,ワーキングホリデーで1年間滞在したニュージーランドから帰国しました.とても良い経験ができたようです.治安が良く,外国人向けの賃貸物件も比較的すぐに見つかり,路上で楽器を演奏していると,多くの現地の方から声をかけてもらえたりしたそうです.
 親として,ニュージランドという国だけでなく,経由地の国々も含め,子どもに対して,良く接してくれたことに,大変感謝しています.

 ところで,7月の参議院選挙で,国内における外国人に対する処遇が論点として挙げられているようです.具体的には,選挙公報には「日本人ファースト」,「外国人への生活保護を廃止」,「移民政策是正」などの文字が並んでいます.
 しかし,これが是とされるのであれば,海外で暮らす日本人が,その国で自国民よりも劣位なポジションに置かれての生活を余儀なくされることも是とされることを意味することにならないでしょうか.
 仮に海外で日本人が生活した時に,何らかのトラブルや生活苦に見舞われたとしても,海外で暮らすというリスクを選択したことによる「自己責任」として,その国からだけでなく,日本からも見放されるということが許されてしまわないでしょうか.

 司法試験の受験勉強をすると,必ず,日本で暮らす外国人に対し,参政権を付与して良いかどうかという問題に遭遇します.問題としては,憲法93条2項の「住民」に外国人を含めて良いかということの考察を求められることになります.
 これについては,国政については難しいとしても,地方における参政権(地方選挙での投票権)は,許容される余地があると考えられています.実際,海外では外国人「住民」にも地方選挙での選挙権を認める国があります.

 外交・防衛を中心とした政策の方針が問われる国政の場面と異なり,社会保障を含めて暮らしに関することが中心となる地方自治においては,「住民」といえるだけの基礎を有する程度にその地方で生活する方にとっては,それに関与するに十分といえるだけの年月を経て,地域への関わりを有しているはずです.
 そして,そのような外国人にとって,自身の居住する地域の生活環境や行政サービスがどのようになるのかは重大な関心事であり,それらの意思決定に関与するために,地方での政治参加を認めたところで,外交・防衛に関して他国を利することにはなりません.
 その上で,そのような,特定の地域に関わりを有する外国人が,何らかのトラブルや生活苦に見舞われたというだけの理由で,その地方・地域での生活を捨てて母国に帰るという選択をすることが容易でないことは想像がつくはずです.
 例えば,そのような外国人が,何らかの事情で職を失ったとしても,その方に子がいて地域の小中学校で教育を受けているとすれば,そこでの生活を維持するという選択を許容することも必要といえます.
 そしてこのことは,日本における外国人だけの問題ではなく,海外で暮らす日本人にとっても,同様に生じうる問題だということに想像が及ぶべきです.「日本人ファースト」という考え方は,「〇〇人ファースト」を理由に,海外で暮らす日本人が何らその国で保護を受けられないことを含意することになってしまわないでしょうか.

 まして,外国人への生活保護などが支給されることにより,その分のシワ寄せが日本人に及ぶという事実があるといえるかというと,容易には想定し難いはずです.
 今年6月27日の最高裁判決が生活保護費の引き下げが違法だという判断を示しましたが,日本人として,国内で十分な保護を受けられるかどうかは,厚生労働大臣の権限によるものです.外国人に対する保護費の支給があることを理由に,生活保護費の引き下げを余儀なくされたというものではありません.
 社会福祉に不十分な点があるのであれば,それを引き上げれば良いだけであって,あえて外国人に対する処遇やその廃止を持ち出すだけの必要性はありません.

 そうであれば,選挙の公約については,単に「住みやすく,働きやすく,子育てしやすい国」ということを掲げればよく,枕詞のように,「外国人」という言葉を掲げる必要はないはずです.

 以上のとおり,私の考えからすれば,「日本人ファースト」は,ナショナリズムを煽って集票するための役割しか果たさず,実際に目を向けるべき問題点から論点をずらし,さらに,在外国民が不当に扱われることを許容するかのようなメッセージを発するものでしかないと思います.

給付?減税?それでいいのか・・・

私のことですが,資産を管理・運用する能力に非常に乏しいと感じています.

「それなら弁護士できていないだろう」と思われるかもしれませんが,弁護士に必要な能力とは別問題で,管理能力に乏しいという自覚があります.
 先日,とある会社の社長と話をした際にそのような話題になりました.

 その社長は,いわゆる中小企業の社長で,従業員数の規模からして,細かいところは除きますが,ちょうど,社長自身が会社の全体(資産,契約,従業員等)の管理・運用をほぼ行っているような印象で,話をすると,数十年先を見据えた話題がところどころで出てきます.
 そのような姿を見るにつれ,「ちょっと私には無理ですね」という私の発言から始まったものです.

 もちろん,私にも,弁護士をしていくだけの一応の能力はあります(あるはずです)ので,「管理能力」が全くないわけではないと思います.
 しかし,弁護士の能力は,過去の出来事の清算が基本で,事件処理をするにあたり,それ自体が将来的に変動することはありません.

 それに対し,会社の人的・物的資産の管理・運用を行うことは,流動的な将来の状況を見据えながら行うことになるため,中長期的な視野のもとでそのための計画を立て,それを実行しなければなりません.
 見据えるべき対象は過去の出来事と異なり,範囲が特定されることはありませんし,外的な要因による影響にも常に気を払う必要があります.

 つまり,私にはそれができないということです.

 そのようなことを考えていたところ,ある作家さんが,日本人の資質について次のように指摘していました.

「抽象的な企画を立てることはできても,それを具体化して推進するための計画と管理運用のためのシステム設計ができない」(2025年7月3日朝日新聞 寄稿:高村薫).

 このことは,埼玉県で県道が陥没し,トラックの運転手の救出に3か月も要したことを切り口として語られたものでした.簡単に言えば,作るだけ作って,維持・管理・運用ができなかったことの具体例として挙げられたものでした.
 そして,これと同じことが,万博やマイナカード,行政のIT化など,税金をつぎ込みながら運用に失敗したものとして挙げていました.

 さて,話は変わって,参議院選挙です.
 各党の主張は,給付と減税の一色です.

 確かに,今を生き抜かなければ将来はありませんので,将来のことを考えすぎて国民が絶滅してしまっては大変です.
 私自身,物価高と弁護士の増加等に伴う収入減に苦しんでいますし,愛車(バイク)の排気量が大きくなったため,ガソリンの燃費が飛躍的に悪くなり,今までの倍以上のガソリン代を捻出する必要にも迫られていますので,給付や減税は歓迎するところではあります.

 しかし,それで本当にいいのだろうか?

 消費税をゼロにして良いのであれば,そもそも,3%から始まったものが10%まで上がることはなかったはずでしょうし,現金を給付をしたところで,それにより消費が喚起されるというものではないことは過去に学んだはずです.

 私自身,消費税自体には反対の立場ですが,それをゼロにするのであればそれに代わる財源・痛みを提示する必要があるでしょうし,現金給付が日々の生活を補助するという目的なのであれば,一過性のものでなく継続的な給付を行うための制度設計が必要じゃないでしょうか.

 国民が今を生きられることはとても大事なことではありますが,政治家においては,中長期的に,この国の制度を維持・管理・運用するための視点を有し,それを具体的に示し,そして実行することが必要であり期待されているのだと思っています.

 しかし,国会終盤での討論を含めた各党の主張を見るにつれ,「日本人の資質からすれば,それを期待するのはやはり,無理なんだろうか」と思いながらも,「いやいや,政治家を志そうという方々は,私のような管理・運用の能力に乏しい方々ばかりではないはずだ」と思いながら,ここ数日,各党の主張を眺めています.