大臣の取った態度の意味

 少し前に,総理の特使として派遣された大臣が,アメリカ大統領から渡された帽子を被ったり,自らを「格下」と述べて大統領を持ち上げるようなコメントをしていました。

 このことについてどう考えるべきでしょうか?

 国内のメディアでは,それに対する国会議員等の意見として「毅然」とした対応を求めるというものがいくつも紹介されていました。その大臣の態度が,米国に対して遜った,対等でないもののように理解されたのだと思います。
 その時,確かに,私自身も,その大臣の態度について,あまりにも謙りすぎているように感じたことは事実です。

 役所にいた時,とある議題について,いくつかの関係する省庁から職員が参加して会議をすることがありました。
 その際には,格下の省庁と見られないため,その会議の責任を負わされないためという観点で,どの役職者が参加するのかを慎重に検討することがありました(課長代理で済むところを課長本人が参加する必要はないということです。)。

 そのため,上記の大臣については,総理大臣との会談でもないにも関わらず,あえて大統領が参加したことを逆手にとって,日本の立場を有利にしうるだけの機転のある対応が期待されたのではないかと思ったところです。
 そう考えると,「毅然に」という意見が出されるのも自然だと思われます。

 しかし,とある雑誌では,その大臣の対応を肯定的に評価するコメントを掲載し,「毅然に」などと注文をつける政治家に対して,状況や戦略の理解が欠けているとのコメントを寄せていました。
 どういうことかというと,大統領を持ち上げて,機嫌を良くし,その本音を喋らせて真意を探るという戦略がそこにあったということです。
 だから,大統領のサイン入りの帽子を被り,大統領を持ち上げるような発言に終始した大臣の対応は,そのような戦略に基づいてなされたものだったというのです。

 確かに,報道を見る限りでは,それ以後,上記の大臣が数回渡米して交渉を継続していますが,アメリカの強い要望に対して,何か譲歩したという状況にはなっていないと思います。
 現時点でも,アメリカの一方的な決定に対し,全面的な見直しを継続して求めているようで,確かに,帽子をかぶって陽気な表情を見せたことが,ただただご機嫌どりをしただけではなかったという解釈が当たっているようにも思えます。

 仕事柄,程度の差はあれ,交渉ごとが多い立場として,とても勉強になりました。

あまりにも無関心すぎませんか?

 お金の支払いを求める仕事の中で,依頼者の相手が自殺したことが過去に2回ありました。当然,私の弁護活動が,相手にとって負担であったのは事実だと思います。

 そうであっても,依頼者側の立場で,正当な権利行使として弁護活動を行なった以上,それについて責任を問われることはありません。
 そのため,相手方が自殺したことを聞いたとき,依頼者との関係があるため,「そうですか」「相続放棄するかどうかですね」と淡々と対応したものでした。

 しかし,内心は複雑です。

 個人的な考えではありますが,自殺は自己決定で行うものであるとの認識から,本人の決定については尊重したいと考えています。つまり,死者に対して,自殺したこと自体を非難することはしないということです。

 しかし,他方で,そのような自己決定をさせるに至らせてしまったそれ以外の者として,何らかの責任を感じるべきだし,そうなるのが自然ではないかと考えています。関係者という意味でもそうですし,同じ社会の構成員という広い意味でもそうです。

 もちろん,私の場合,依頼者の相手方ですから,直接,破産を勧めるようなことはできません。
 しかし,弁護士という社会的な立場にある身としては,自殺を回避する手段になりうるものとして,そのような方法(破産)の存在が社会的に周知されていないということについて,ある種の責任を感じざるを得ません。

 少なくとも,人が亡くなったことについて,無関心ではいられません。

 では,政治家である立花氏,斎藤氏,石丸氏はどうか?

 個人の住所をSNS上に晒す,無関係な情報をリークする(よう指示する),過激な言葉で個人を非難することで,結果としてその対象となった方々が自ら死を選ぶ事態に至っています。
 もちろん,その間に介在した事情(支持者が押し寄せる,嫌がらせの電話が鳴るなど)があり,直接的な因果関係がないといえばそうではありますし,法的な責任がないといえばそうでしょう。
 しかし,自己の行為とは全く無関係であると言わんばかりの発言や態度を見ると,そこまで割り切ってしまえることなのかと,政治家としての資質以前に,人として問題があるのではと,疑問を感じずにいられません。

 あまりにも無関心すぎませんか?
 それとも,サイコパスなんですか?

 私の個人的な経験ですが,23歳の頃,就職活動として官庁訪問を行なった際,ある役所の方から「まだ人は死んでませんから」と言われたことがあります。
 これは,その当時,ダイオキシンが各種メディアで取り上げられ,社会的な問題とされていたことに対しての発言でした。

 しかし,この発言は,人命に関わるものではないため,それよりも優先される問題(例えば,農薬など)があるということを意味するものでした。
 このことを反対に言えば,人が亡くなるというのは,行政としても,その問題の有する危険性が一線を超えることを意味するということです。

 例えば,労働行政であれば,労働災害のうち,死亡災害が発生すれば,必ず原因の調査が行われ,多くの場合,刑事罰を課すための捜査も着手されることになります。
 行政においても,それだけ人命が失われることが重大であると認識されているということです。

 私の携帯電話のメールには,いまだに「あなたの携帯電話の番号が公衆トイレに落書きされていました。心配になり連絡しました」という迷惑メールが届くことがありますが,他人の個人情報を晒しものにすることに,どのような意味があるかは分かりますよね?
 そして,そうすることで,どのようなことが起こるのか,想像できませんか?

 職務中にプライベートなことをすれば,職務上の問題にはなるとしても,それによって自己の行為(告発・公益通報の対象となった行為)に対する批判や責任が軽減され,正当化されるという関係にはありませんよね?
 それとこれとは別問題だと理解し得るだけの知性を有している方の行為であることからすれば,別の目的があってそうしたということですよね?

 大勢の前で「恥を知れ」と怒鳴るのは,職場であればパワハラです。
 公人(議員)に対する発言であることを理由にパワハラにならないとしても,あなたが指摘した事実を建設的に解決しようという目的でそのような発言に及んだわけではありませんよね。
 ただ,自己の感情を満たす,あるいは他の目的(再生数を上げる)のためにそのような手段を使ったんですよね?

 たとえ民意によるものではあるとしても,私は,彼らに公的な地位を与えることについて,疑問を禁じ得ません。

コンクラーヴェの導入は?

 今年の4月に先代のローマ教皇(法王)がなくなり,今月,あらたな教皇が選出されたのはご記憶に新しいと思います.
 その選出する過程・手続のことを「コンクラーヴェ」と呼ぶそうです.

 日本における,「天皇」についても,憲法及び皇室典範の定める世襲制ではなく,希望者のうちから適格性を有した方を「皇族資格者」として,その中から,コンクラーヴェと同じような方法で「天皇」を選出するようにしたらどうだろうかと思ったところです.

 そのように思う理由は,「天皇」を世襲とすることで,本人の意思によらずに,その人(天皇)の一生を国家の制度に組み込んでしまうことに,私が反対だからです.

 憲法1条は,「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定し,同2条は「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」と規定しています.

 要するに皇室に生まれた以上,「天皇になりたくない」「皇族はいやだ」と言えないということです.

 憲法4条は「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」として,天皇は,政治的な行為を行わないものとされています.
 そのため,天皇であることに特殊な能力は求められていません.世襲(血のつながり)であることにどれだけの意味があるかといわれても,歴史的な理由はあるとしても,それだけの犠牲を強いるだけの理由になるとは到底思えません.
 そして,同1条が「象徴」とするのであれば,「皇族資格試験」のようなものを作り,天皇が政治的な権能を有しないことをはじめ,過去の皇族の行為などの歴史上の出来事等について基本的な知識等を備えた方を合格者として「皇族資格者」とし,その方々により日本版コンクラーヴェを行い,「象徴」にふさわしい方を選ぶというのが良いように思いますが短絡的でしょうか?

 「天皇」となることが,一般国民に対しても門戸が広げられれば,それを利用して政治的な活動を行おうとうすることは危惧されますが,憲法3条が「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」と規定し,前述の憲法4条で権能は制限されています.
 その上で,そのようなことを理解し,「象徴」を任せて良いと判断される方をその時々の「天皇」とすることでよくないでしょうか?

 天皇は男系男子に限り,それを維持すべきなどの議論がされていますが,生まれながらにして,「皇族」としての地位と責任を負わせるという制度は,現代においては,やはり無理があると言えないでしょうか.

 憲法改正を検討するに当たっては,まず,この点の改正をしてはどうかと思いますがいかがでしょうか?

交通事故をなくす方法

 どうしたら良いでしょうか?
 そんな方法があれば,警察庁がとっくに採用しているはずです.
 しかし,確実に件数がゼロとなる方法があります.

 それは,「交通事故」の定義を変えることです.

 一般的には,交通事故とは,自動車による事故と捉えられていますが,これを明日からでも「飛行機と船舶との間で生じた事故」を交通事故と定義しなおせば,日本ではほぼゼロになるでしょう.
 ふざけてはいますが,これは,私の司法修習の同期が言っていたことです.

 ところで,「凄腕女性弁護士」との記載とともに「性暴力はない」という趣旨の見出しが,新聞の下の方にある週刊誌の広告の中に記載されていました.とあるテレビ局の社員を被害者とするタレントの行為に関してのものです.

 実際,何があったのか,私は真実を知るものではありませんが,各種報道から推測して,おそらく性交渉はあったんだろうと思われます.
 しかし「同意があった」と言わないところに,弁護士的な発想が垣間見えて,あまり気分が良くないと感じたものです.

 つまり,「性暴力」の定義をどのようにするかにより,事実(真実)として何があったかは別にして「性暴力はなかった」といえる,あるいは,そのような印象を出そうとしているのだろうと想像できるということです.

 私自身,仕事では,依頼者との関係上,積極的に嘘はつかないが,相手のいう事実関係を認めることはせずに,それと異なった事実があったかのような主張をすることはよくありますし,されることもあります.
 それが功を奏して,裁判所が認定できる事実の範囲が変わってくることがあるのは実際のところですし,そうならないこともあります.

 そのタレントさんが,自身の名誉を守るために「性暴力はなかった」というのであれば,私としては何も気に留めずにスルーしたと思いますが,「弁護士」との記載とともにされると,ちょっと,考えてしまいます.

 繰り返しますが,私自身,真実は知りませんので,それ以上のことは言えません.
 しかし,彼から依頼を受けた「弁護士」がどのような思考回路を有するかということを理解できる以上,「同意があった」と言わないことから,その背景に潜む事実を想像してしまい,やはり,複雑な心境にならざるを得ません.