弁護士の助言の理由について

 兵庫県知事のパワハラ疑惑で,職員を懲戒処分にすることに問題がないと助言した弁護士の存在が報じられ,「弁護士って何者?」と思われた方がいると思います.
 このことについて少しだけ.

 おそらく,弁護士が,権力者に頼られる場面を想定すれば,専門家として意見を求められ,行われようとする処分等に法的問題がないかを判断し,場合によってはそれにストップをかけることすら期待されると考えるのが自然だと思います.
 兵庫県知事のニュースに出てくる弁護士の行動に疑問を持つ方がいれば,それは,このような認識を有しているからだろうと思います.

 しかし,弁護士といえども,現実的には,一定の結論を前提に,それを支持するような意見を求められる場合がないわけではありません.そして,弁護士も,依頼を受ける立場である以上,その依頼者の意向に真っ向から反する意見を出しにくいときがないわけではありません.
 さらに,弁護士も「人」である以上,そうすることが正義だと考える方もいないわけでもありません.

 兵庫県知事に助言した弁護士も,確実に,処分が違法となるとの判断をすれば止めたかもしれません(そのような場合であれば,処分を後押しすることはさすがに弁護過誤になると思われます.).
 しかし,今回は,おそらく,その意向に沿った意見を出すために,処分をしても違法ではないという判断をするための一応の検討を行い,その意向に沿った意見を出したのだと思います.

 ところで,弁護士だけでなく,社会全体において,似たようなこと(専門家等が権力者の意に沿った助言を行うこと,反対に,権力者がそうすることで手続上の問題がないものとして権力を振るうこと)が多数あります.
 例えば,政府(役所)が国会に提出する法律の改正案も,審議会での議論を経たとのお墨付きを得た上で国会に提出されますが,審議会が偏向的な意見を出さないとは限りません.実際は,事務局である役所の考えを強く反映することが多くあります.
 その他にも,こんなところでも・・・(この辺でやめておきます.).

 訴訟手続において,自己の権利をかけて闘争する場面であれば,弁護士が,代理人として,依頼者に有利となるような主張を行うことは良いとしても,やはり,私の感覚からすれば,それ以外の場面では容易にそのような態度を取ることはできません.
 仮にそれが訴訟手続であっても,依頼者の利益を考えれば,やはり,求められるは客観的に正しいと思えることを主張すべきだと考えますし,そうしなければ,どこかで論理的な破綻をきたすことになると考えています.

 「人」により構成される「社会」の中で,私のように考えることは甘い考えかもしれませんが,そんなこんなで50年近く生きてきました.
 あと何年生きるか分かりませんし,あと何年弁護士を続けるかもわかりませんが,主観的・偏向的な「正しさ」ではなく,客観的な「正しさ」を追求して生きていきたいと思っています.

「責任の重さ」を感じる時

 私の受ける依頼・仕事は,どのような内容であっても,責任の伴うことは間違いありません.しかし,特に「責任の重さ」を感じる時があります.
 つい最近,改めてそのように思ったことがあったため,その時のことを少しだけ.

 このテーマとは何も関係がないように思われるかもしれませんが,我が家には7匹の猫がいます.いずれも保護猫です.
 これまで,身近に存在が確認できた野良猫を保護し,そのうち,幸にして引き取り手が見つかったものは譲渡してきましたが,懐かなかったりして,譲渡が難しいと考えたものについては,我が家で引き取ってきました.

 その猫たちを見ると,「簡単に倒れられない」と思うわけです.

 たとえ私が倒れることがあっても,家族については,行政による保護や,生きていく上で何らかの援助を受けられることが期待できる場合が,多くはありませんが存在します.自分で生きていくだけの選択肢もある程度はあるはずです.

 しかし,避妊・去勢をされ,家の中での生活に慣れた猫たちは,新たな住まいに連れて行くことができるかどうかは分かりません.
 そうできない場合,譲渡先が見つかり,新たな飼い主のもとで生きていければ良いですが,それについても人間頼みです.
 もし,再び野良猫として生きていくとなれば,相当な困難が伴うことが容易に想像されます.そこには行政による保護も,誰かからの何らかの援助も期待できません.
 おそらく,飢えて死を待つということになるでしょう.

 ですから,簡単に倒れられないというわけです.

 先日,とある依頼者のもとにいき,事件の打ち合わせをしてきました.
 そこには,避妊手術を受け,そのことがわかるように耳をカットされた黒猫がいました.依頼者のお店の看板猫だそうです.
 私が黒猫を撫でていると,飼い主(依頼者)からは,看板猫で
 「食事と自由が保障されている」
 という説明がありました.
 また,打合せの際,黒猫が自由に外を出歩いていましたので,完全室内飼いではないことも分かりました.「自由」とはそういう意味だと理解しました.
 つまり,その黒猫は,依頼者のもとで,地域猫として保護され,地域猫として餌をもらっている身分だろうということです.我が家の猫たちと比べれば,享受しうる自由には,雲泥の差があります.

 ところで,その黒猫は,「食事と自由」は確かに保障されてはいますが,依頼者がそこでの事業を辞めてしまった時どうなるのか.今回受けた依頼(相談)内容からすれば,そのような選択肢もないわけではありませんでした.

 事件の詳細については申し上げませんが,依頼者は,とある競業する大手の業者に睨まれ,まさに事業を潰されようとしている状態にあります.その事業自体,確かに歴史は長いのですが,そこまでして維持しなければならない「宿命」と言いうるようなものがあるともいえませんので,辞めることも不可能ではありません.
 また,依頼者は,話の端々からすると,それなりのキャリアを有しているようで,事業を行う上での能力に申し分はなさそうです.辞めてしまえばある意味,シガラミから解放され,かえって楽になれるはずです.
 何より,子供がゴミを.材料の入っている袋の中に入れようとしたのを見るや,自分の手に持っていたスマホを放り出して,そのゴミをキャッチしたのを見た時は,「素晴らしい」と感心してしまいました(なお,スマホの画面はしっかりとヒビが入っています.).
 おそらく,私なんかと違って度胸もあり,新たな可能性を求めて新規に事業を立ち上げるなどすれば,自由な発想とキャリアを武器に,もっと活躍できるだろうと思ってしまいます.

 そのため,依頼者についてはいつまで事業を続けるか,あるいは別の場所に移り別の事業を行うという選択は自由にできるはずですし,そうしたとしても,何も支障があるようには思えません.
 その場合,おそらく看板猫も一緒に連れて行ってくれるはずではありますが,自由な黒猫が,そのことを理解して素直についてくるかは分かりません.
 ついてきたとしても,少なくとも,人間の都合で,これまで生きてきた環境が大きく変わり,それまでに享受していた自由を制約されることになるはずです.
 万が一,うまく連れて行くことができなかった場合,その黒猫には,「飢えるための自由」しか残されないことになるかもしれません(飼い主が連れて行ってくれないと思ってはいません.猫って,そんな生き物なんです.そこは誤解しないようにお願いします.).

 そんなわけで,依頼者の事業が脅かされることなく続けられるようにすることも大事なんですが,そこには,黒猫の「食事と自由」もかかっていると考えると,改めて「責任の重さ」を感じずにはいられなかったところです.

「そんなことで?」と思われるかもしれませんが,そんなものです.

 今後,今回の事件がうまく解決すれば,おそらく,依頼者の事業は無事に継続できることになるでしょうし,それと合わせて,時代錯誤のしがらみも消え,更なる発展も期待できると思っています.
 その時,依頼者に生じた困難と,依頼者がそれを乗り越えたことについて,メディアが大々的に報じることはないでしょうし,SNSに投稿したところで何人かはそれを目にするとは思いますが,良い意味で炎上する(バズる)こともないでしょう.
 しかし,今回の事件がうまく解決することにより,その黒猫は,いつものように店の前で我々を出迎えてくれるはずですし,そのことが,今回の事件の結末を何よりも雄弁に物語ってくれるはずです.

 ですから,黒猫の「食事と自由」を守らないといけないと思うわけで,そうすると,「責任の重さ」を感じずにはいられないということです.

立候補者の掲示板と自由な国

 昔,どなたかの言葉で「都知事選はお祭りだ」と述べていたものがあったように記憶しています.以下のとおり,この言葉は,民主主義のもとで,人々が政治的表現の自由を妨げられないことの重要性を意味していたのだと,今更ながらに思い出し,理解するに至りました.

 少し時間が経ちましたが,今年の東京都知事選で,候補者の掲示板に,ほぼ全裸の女性の写真が掲載されたことや,候補者の動画に誘引するポスターの掲示などが問題となりました.
 このようなことを聞けば,掲示する写真の内容について規制すべきだという考えに至りそうです.こんな私も,最初は,掲示板の使用方法に疑問を感じはしましたし,規制もやむを得ないかとも考えました.偶々東京に出張があり,実物も拝見する機会もありました.
 しかし,香港の警察からの弾圧を恐れ日本に亡命した方が,この掲示板を見た時に発した言葉に触れ,規制すべきではないとの考えに至りました.

 その言葉とは,「日本は自由な国だ」というものです.

 まず,亡命された方ではなく,これについて,内容を規制すべきではないという学者の意見から紹介します.
 8月8日の朝刊に,憲法(ここでは,政治的表現の自由)と民主制の観点から掲載されました.その意見は,内容を規制するのではなく別の方法を取るべきだというものでした.
 具体的には,どのようなことであっても,政治的な言論は保障されるべきであり,その内容を理由に法的な責任は問われないものとし,その代わり,候補者としての一定の資格を設ければ良い,そして,主張に対する判断は当落で決せられれば良いというものでした.
 その理由は,社会にある問題を提起し,政治的な解決の必要性を訴えようとすれば,他人にとって不快とも言える表現を用いなければならない場合もあるからだということです.
 例えば,戦争や紛争というものに関する主張を行おうとすれば,その悲惨さを伝えるために,被害の状況を伝えるべく写真を掲示することも許容されるべきだということです.動物虐待を問題にしようと思えば,虐待された動物の写真を持って訴えを行うことも当然です.さらに,国が行ってきた強制不妊手術やハンセン病者の隔離などは,まさに,そのような類の表現となるでしょうし,しかし,それらが許容されるべきだと言われれば納得できると思われます.

 そのため,性風俗産業で働く方の社会的な保護の在り方などを訴えようとすれば,冒頭のほぼ全裸の女性の写真を掲載するようなこともあり得るかと思いますが,それが政治的意見である限りは許容されるべきです.
 仮にそれが泡沫候補者と呼ばれるような方々によるものであっても,多くの国民が関心を示さない,気づくことのない社会の闇を照らし,その問題を社会に訴え政治により解決したいと思い行動することは,民主制において崇高な行為であるとともに,表現の自由として最大限保障されなければなりません.大多数の方から見れば「こんなことを」と思われるようなことほど,保障されるべきとも言えます.

 そして,そのようなことが許容されることこそが,民主制における自由が保障されることの表れだと思えます.香港から亡命された方の言葉には非常に重いものを感じるとともに,それとは別に,昔聞いた「都知事選はお祭りだ」との言葉を思い出し,その言葉に愛おしさすら感じました.

 今後,選挙で候補者の掲示板を見るたびに,私の住むこの国が,自由な国であることを確認できる,そんな日本であり続けることを願って止みません.

マニュアル車を増やして欲しい

 タイトルについては自分の好みによるものですが,単に,マニュアルの車種を増やして欲しいというだけでなく,そうすることが社会的にも有用ではないかとも思っています.

 とある大学の研究室の調査では,オートマ車とマニュアル車の事故率を比較すると,マニュアル車の方が有意といえるほどに割合が低かったとのことです.社会的に有用ではないかとはこのような意味においてです.
 事故率が低い理由については推測するしかありませんが,操作がオートマ車に比較して複雑であるため,慎重に運転するからではないかという意見があるようです.

 他方で,登録車の約98%がオートマ車だそうです.
 そのため,車の運転が好きな方,あるいはトラック等の職業として運転する方など,運転技術の優れた方が残り2%のマニュアル車に乗るため,その分,事故率が下がっているのではないかとの意見もあるようです.そのため,自動車の動力伝達装置の相違に由来して差が生じているとはいえないというご意見のようです.

 しかし,運転技術は,単に,クラッチとシフトレバーの操作が上手いかどうかというだけの問題ではなく,道路上の車両の状況についての認知能力等が大きいのではないかと思います.例えば,男性と女性とでは,空間認識能力が男性の方が高いため,自動車の車庫入れなどは,男性の方が女性よりも比較的得意だと聞いたことがあります.運転技術は,単に,クラッチ等の操作だけの問題ではないはずです.

 また,左手でスマホを持ったまま運転をしている方をよく見かけますが(違法です),左手でシフトレバーを操作することから解放されたことが大きな原因ではないでしょうか.

 この「ひとりごと」の冒頭にご紹介した鷺沢さんも,オートマではなくマニュアル車を好んで運転された方のお一人です.
 私の場合,最初に取得した免許が二輪車で,マニュアル車だったことも影響しているものと思いますが,意図しないタイミングでエンジンブレーキがかかったり,加速したいと思った時にギアが上げられて思ったように加速できないことにストレスを感じます.

 車にご関心のない方からすればどうでも良いことだと思いますが,マニュアル車の普及拡大と併せて,各メーカーのラインナップが増えることを期待しております.