離婚後も,両親が共同で親権が行使するように法改正すべきかが審議されています。
共同親権とすべきとの世の中の意見が強いように感じますが(多分,そう法改正はされるのだと思います。),少し,違った視点で私の感じる違和感を以下で述べたいと思います。
「親権」とは,子供の財産を親が代わりに管理等することと,監護教育する権利をいいます。
財産の管理等というのは,例えば,子供の習い事を親が申し込んだり,あるいは,子供の預貯金から,親が学費を支払ったりすることです。
監護教育する権利は,子供と一緒に暮らして教育を行うことです。
現在,法律を改正して共同親権を認めるべきかどうかについて,メリットやデメリットを挙げて議論されています。外国では,共同親権が主流のようですので,それとの歩調を合わせるという意味もあるように感じます。
私としては,単独親権で良いと思っていますが,その理由は,単なるメリットとデメリットの比較・考察からではありません。共同親権とした場合,国が一定の方法を押し付けることになりかねないということを危惧するからです。冒頭で触れた私の違和感とはこのことです。
そもそも,(両)親子の関係は,法律以前の問題です。
親である以上,子供に対して責任を負うことは当然ですし,子の成長に関わりたいと思うことも自然なことです。その場合のあり方を法律で一律に定めてしまうことについて,強い違和感を覚えます。
このことは,結婚についても当てはまります。
パートナーを求めること自体は,人間として自然的な感情に由来するものです。法律上の婚姻という制度がなくとも,当然として行われます。
そのため,もともと,人間にとって自然的なパートナーとの関係性について,国が法律により,後付けで,「婚姻関係とはこのような関係性をいう」と定め,そうしなければ,社会保障や税制上の利益をうけられないというのは,私としては息苦しさを感じます。
同性婚が認められていない現状においては,その当事者にとっては,人として認められていないに等しいほどの感覚を覚えざるを得ないのだと思います。
この点,先月,犯罪被害者給付金について,同性の事実婚の関係にあるパートナーに対しても給付すべきとの最高裁判決(令和6年3月26日)が出されました。このことは法律上の婚姻関係になければ利益を受けられないということを国が定め,そのことが社会的にも当然視されてしまう現状を変える一助になるものとして,私としては好意的に捉えています。
ちなみに,夫婦同姓の問題も,これらと共通の原因によるものであると,私としては理解するところですが,とある大学の研究で興味深い結果が出たそうです。
それは,夫婦同姓を維持した場合,2531年には日本国民全員が「佐藤」となってしまうというものです(東北大学高齢経済社会研究センターの吉田浩教授)。
話を親権に戻しますと,共同親権の場合,共同であることが前提とされてしまいます。法律によりこれが強制されてしまいます。
しかし,子供にどのような将来を提供するか,そのために子供の財産の管理等や監護教育をどのようにすべきかは,両親が離婚してもしなくても必要なものですし,単独親権であることを理由に,このことに両親が関わるべきことまで否定されることはないはずです。
この点,単独親権を維持すべきとの立場から,離婚したとしても,単独親権となったとしても,離婚後も両親が子の養育に関与し得るようなサポートを国としては充実させるべきとの意見があるようです。
私としては,このような意見は,傾聴に値すると考えます。
例えば,産後まもない育児について,国は,これを両親が共に行うことは義務付けいませんし,いずれか一方が育児を負担し,他方が仕事に専念するということも禁止していません。ただ,そうした場合の問題点が指摘されるようになったことから,国は,共同で育児を負担し得るように,育児休業制度を制定し,利用を促進しています。決して,育児のあり方を法律で義務付けるものではありません。
これと同じように,国は,離婚後であっても,子の両親が,同人らの間に存在する問題(おそらく離婚の原因になったこと)を解決し,共に,子の将来を考えて養育に参加できるような支援を行うように制度を整備することが優先されるべきと思います。
単に,共同親権とすれば問題が解決されるというものではないはずです。
以上,色々と述べたところですが,私は,基本的には離婚(や家事)の依頼は受けておりません。
そのため,以上の意見は,実務を知らない素人的な発想の域をでないものかもしれませんが,共同親権の議論が,同姓姻や夫婦別姓などの問題と根本的なところで共通していると理解し,その点についての違和感を覚えたことによるものです。